ここは音楽の街「ピオーヴァ」
ピオーヴァの街の誇るコンサートホールは、
僕たちの他にもたくさんの観客で溢れかえっていた。
「先生、午前中の演奏、すごく良かったですね」
「午前中のトリはファルシータさん。僕はあの人がやっぱり一番上手かったと思います」
優等生のロミオがそう切り出した。
「そりゃあそうさ、なんてったって入団数年でピオーヴァで一番の歌姫とまで言われるようになった実力者だぞ…」
そう答えたのはステファノ、半年前に入学した元気のよい少年だ。
「そうね、やっぱり才能のある人は違うわよね。それにすっごく美人だったし…」
いつもロミオに対抗意識を燃やしているスペラは、うっとりした顔でそう言った。
「それだけではないですよ、彼女の歌声も確かに素晴らしかったですが、彼女の伴奏者。リセルシアさんのフォルテールも、とても素晴らしかったと思います」
生徒たちは初めてのプロのコンサートの感想を、目を輝かせて話し合っている。
時折僕に話しかけられる言葉に返事をしながら、
僕は入場の時に渡されたプログラムに目を通していた。
年に一度、この国の複数の楽団が集い、開かれる演奏会。
僕たちは、自分の音楽教室の生徒たちを連れて、この街へやってきた。
もちろん、プロを目指す生徒たちに良い曲を聞かせる…という教育的目的もある。
だけど、この大舞台に出ることになったトルタの歌を聴くという、もう一つの大切な目的もあった。
「午後の部の三曲目が、アリエッタ先生の妹さんが歌う番なんですよね?」
「うん。アルの双子の妹、トルティニタがあの舞台で歌ってくれるんだよ」
「トルタさんの歌を聴くのは久しぶりだから、とっても楽しみ!」
「俺は初めてなんだ、でもなぁ…アリエッタ先生の妹なんだろう?本当に大丈夫なのか?」
『大丈夫よ!聴けば絶対、ファンになるから!』
そう答えたのは4人目の生徒。音楽教室では最年少ではあるけれど…トルタの歌声を一番良く知っている生徒でもあった。
「ふふ…さあみんな、そろそろ午後の部が始まるから、静かにしなきゃダメだよ?」
「「「「はーい」」」」」
楽しそうに話をしている生徒にそう話しかけて。僕も読んでいたプログラムを閉じた。
そんな話をしている内に、アルが戻ってきた。
「ごめんなさい、クリス。遅くなっちゃった」
他の観客に迷惑が掛からないように、小さな声でアルは言った
「アリエッタ、お帰り」
僕も、アルだけに聞こえるほどの小さい声で答える。
「トルタと話してたら少し遅くなっちゃった。演奏会が終わったら、皆で夕食を一緒にしましょうって」
アルは微笑みながら僕の隣の席に座る。
「トルタの歌を聞くのは一年ぶりくらいだから、僕も楽しみだよ」
生徒たちの引率を引き受けていたため、今日僕はまだトルタと会ってはいなかった。
「さて、いよいよだね…」
「うん…」
僕の隣にはアルと四人の生徒がいる。
そして、その周りには数え切れないほどの観客が。
静かに幕が上がり、午後の部が始まる。
そして、2人目の演奏が終わった後、
その舞台の中心にトルティニタは立っていた。
多くの照明に照らされた彼女は、曇りなく澄み切ったような自信に満ちた顔をしていた。
静かに息を吸い込み、ゆっくりと歌い出すトルタ。
僕は久しぶりに聞くトルタの歌声を、目を閉じながら味わう。
その声は僕やアル、生徒たちの耳と、
きっと心にも…染み渡っていった。
歌が終わり、お辞儀をして舞台をおりるトルタ。
もちろん、割れんばかりの拍手が彼女に贈られたのは言うまでも無い。
「すげえ…上手い。あれがトルティニタさん…」
「でしょう?私的には、あのファルシータさんに負けないくらいの歌声だと思うの」
「本当に素晴らしい歌…でしたね」
口々に感想を言う生徒たち。
「ありがとう。でもほら、次の歌もすぐ始まるから、みんな静かにしないとね」
「はい先生。分かっています」
「えっと次の四曲目は…アレクサンドさんって人みたい」
「この後の人も、やっぱりすっごく歌が上手いのかな…俺、すっごく楽しみ!」
心底演奏会を楽しんでいる生徒たちに一種の満足感を覚え、僕はアルと顔を見合わせた。
全てのプログラムの終了後、席を立つ観客達の中で僕たちは暫し座ったままに余韻を楽しんでいた。生徒たちは4人で演奏会について感想を話し合っているようだ。
「トルタの歌、本当に素敵だったわね」
「うん。それに、とても良い顔をしていたよ」
「そうね、トルタ…とっても綺麗だった」
「…アル」
「なあに、クリス?」
僕は、アルにだけ聞こえるほどの小さな声でアルに話しかけた。
「僕は今、幸せだと思う」
「…うん。私だって、幸せだよ」
「だけど僕は、この子たちを…この子たちの幸せを、見つけてあげることが、ちゃんとできるのかな…」
「…たぶん、僕一人の手で幸せにできる人間は、きっと多くない。君と僕の…家族を守るだけでも、僕には精一杯だと思うから…」
アリエッタは僕の言葉を聞き終えると。
少しだけ間を置いて、僕に語った。
「…幸せは、誰にだってあると思う。私の場合、それはクリスと一緒にいられることだった」
「幸せは誰にでもあって、でも、それが見つからないことだって…あると思うの」
「見つからない…か、そうだね」
「あの雨の街で過ごした日々は、それが見つからなくて、迷い続けていた日々だったのかもしれない」
「…それでも、クリスは私を見つけてくれた。だから、私もそれを見つけることができたんだよ」
「幸せは…それを見つけることができるのは、自分自身だけ」
「でも、それを見つけやすいようにすることくらいなら…私たちでもできるんじゃないかな?」
「…そうか。…そうだよね」
僕はまだ、それを探し始めたばかりの生徒たちの未来を思い描きながら、アリエッタの左手を握りしめた。
「早く行こうよ、お父さん!私、トルタお姉ちゃんに早く会いたい!」
気がつけば目の前には生徒たちが立って僕らを待っていた。
その最前で、僕たちに手を伸ばす幼い少女。
「ふふ…クレッシェンテったら、待ちきれないのね」
アルは微笑みながら立ち上がり、彼女の左手を握りしめる。
僕らの教室で最年少の生徒にして、
僕とアリエッタの一人娘、クレッシェンテの手を。
「うん、待たせてごめんね。行こうかロミオ、ステファノ、スペラ、クレッシェンテ!」
僕も一緒に席を立ち、楽しそうに微笑むクレッシェンテの右手を握った。
音楽教室の先生として、彼らに演奏や歌を教えることが今の僕たちの役割だ。
彼らの適性を見つけ、才能を伸ばしていく。
技術や知識を教えるのはもちろん大切なことだ。
(でも、僕の一番の願いは…)
アリエッタの歌は、今でも決して上手いと言えるものではなかったけれど、
それでも、いつも楽しそうに歌う彼女の姿を見て、
生徒たちにも、僕の願いを知ってほしいと思っている。
『音楽を好きになること』
『たとえ、上手くならなくとも構わない』
『音楽を、いつまでも好きでいられるように』
僕たちの夢は続いていく。
ロミオたち、そしてクレッシェンテの未来は、まだ始まったばかりだ。
どうか、この先の彼らの未来に
美しい音楽と、幸せがありますように。