「ただいま」
家の扉を開くと、誰もいない部屋に向かってクリスはそう呟いた。
そのすぐ後に続いて私も部屋に入る。
机の上に荷物を置き、振り返って私は答えた。
「おかえりなさい」
これからこの家で何百、何千回と繰り返されるだろう他愛のない挨拶。
その最初の一回を、私は笑顔で最愛の人に伝えた。
町外れに佇む小さな一軒家。
ここが、今日からクリスと一緒に住む私たちの家だ。
簡素な作りの家だけれど、居間は少しだけ広めになっている。
家具は元々私たちが使っていたものを持ち寄ったが、新しく買ったものもある。家族や近所の人たちにも手伝ってもらい、それらを運び込んだのが昨日だった。
今日は引っ越しと、私たちが同棲を始めるお祝いを兼ねて、私の両親とクリスの両親とで、町のレストランで夕食会を開いた。
幼馴染である私たちは、昔から家族ぐるみの付き合いをしていて、毎週それぞれの家で夕食を食べる習慣もあった。でも今日は特別な日だからって、滅多に行かないレストランで少しだけ豪華な夕食を食べた。
「お腹いっぱいだね。クリス、ハーブティーでも飲む?」
「ああ…うん、そうだね。お願い」
クリスはそう答えてくれたので、私は台所に行きお茶の準備をする。
二人でテーブルに座り、ハーブティーを口にする。
「お疲れさまクリス。明日は特に予定はないよね?」
「うん、日曜日だからね。どこかにデートに行く?…それとも、アルは家でゆっくりしたい?」
「うーん、私はどっちでもいいかな?だって、これからは毎日会えるんだもんね」
そう言うと、クリスは優しく微笑んだ。
半年以上のリハビリを終えた後、私とクリスはそれぞれ仕事を探して働き始めた。私はパンを焼くくらいしかできないけれど、ピオーヴァ音楽院を卒業したクリスなら、ピオーヴァでプロのフォルテニストになる夢だって叶えられたはずだった。
それでもクリスはピオーヴァに残ることを選ばず、私の元に帰ってきてくれた。正確には…私と一緒に、だったけれど。
クリスとずっと一緒にいたい。
そんなわがままな私の願いを、彼は叶えてくれた。
クリスも、私と一緒にいたいって、願ってくれた。
だから私は、私たちは今、ここにいる。
お茶の後、私は朝食用のパンの仕込みをしながら、
クリスとピオーヴァでの思い出話に花を咲かせていた。
学院での話や、日曜日のアンサンブルの思い出。
私がフォーニだった頃、フォーニとして、クリスと一緒に暮らしていた頃の話を。
病院にいた頃、ピオーヴァにいた時のことを思い出し
クリスに泣きついてしまったこともあった。
今でも完全には受け止めきれていない、私の罪。
それでも、クリスは何も言わずに私を抱きしめてくれた。
いつだってクリスは私を大切にしてくれた。
私の側にいてくれた。
穏やかな時間は流れていき、
私達は寝室へと向かった。
寝室にはベッドが2つ並んでいる。
私たちは寝間着に着替え、ベッドに腰を掛けた。
少しの間沈黙が続いたけれど、
先に口を開いたのはクリスだった。
「えっと…そろそろ寝ようか?アル…」
ぎこちない口調で、クリスはそう言った。
「う、うん…そうだね、クリス…」
私も同じような口調で、それに同意した。
幼馴染である私達の距離は、恋人になるずっと前から近くて
子供の頃は、同じベッドで寝たことも何度もあった。
でも、今の私たちが同じ部屋で寝るという意味は…昔とは違う。
今日、私たちの両親の前で
クリスは私との婚約を口にした。
口にしなくたって、誰もがそれを当然のことと受け止めていたし、
私たちの同棲は、近い将来…夫婦になることを意味していた。
それでもクリスは、お父さんとお母さんの前で言ってくれた。
『アル…アリエッタを、僕にください』
『僕が必ず、幸せにします』
って。
それがどれだけ嬉しかったか…
きっと私はこの先、何年経っても、
今日この日のことは、決して忘れないと信じられる。
そして…
クリスの顔が赤くなっている、たぶん私だってそうだ。
『一緒に、寝てもいい?』
その一言を、どちらかでも言えたのなら、
この夜のことも、きっと忘れられないものになるだろう。
「クリス……」
私は勇気を出して言葉を紡いだけれど、
その先が続かなかった。
結局その夜は、お互いに一歩を踏み出すことができず。
私たちはそれぞれのベッドで眠ることになった。