――眠れない。
ベッドに入って目を瞑ったものの、
私はなかなか眠れなかった。
胸の鼓動が収まらず、毛布の中で小さく身を縮めても、心がざわついて仕方なかった。
何も急ぐ必要はないって分かってる。
今はもう、クリスの想いを疑うことはない。
だけどほんの少し…
ほんの少しだけ、切ない気持ちになってしまった。
クリスの方を見ると、彼はもう熟睡しているようだった。
静かで穏やかで、子供の頃と同じような無垢な顔で眠っているクリス。
ベッドの端に腰を掛け、クリスの寝顔を見つめる。
手を伸ばせば届くほどの距離。
暗闇の中、月明かりが彼の顔の輪郭を柔らかく照らし出していた。
(ピオーヴァにいた頃も、こうやってクリスの寝顔をよく見ていたっけ)
妖精の体では、意識を薄くして姿を消すことで、
眠りに近い状態になることはできたけれど。
夢を見るような深い眠りは得られなかった。
それも当然だ。だってその時…私の体は、この故郷の街で眠り続けていたのだから。
『妖精と言う存在は、誰かが知覚したからこそ存在し、その意味を持つ』
いつか読んだ本に、そんなことが書かれていたのを思い出す。
あの時、私は妖精の体を得て、美しい歌声も手に入れたけれど、
それでも誰からも知覚されなかったとしたら、
その姿も歌声も、何の意味も持たなかっただろう。
誰にも干渉できず、ただ眺めていることしかできなかったのなら、
私はきっと、そんな妖精の姿さえ保つことができず、
とっくに消えてなくなっていたと思う。
私が妖精として、
フォーニとして在り続けられたのは。
クリスが卒業するまでの間、
その命を繋ぐことができたのは。
3年間ずっと私のそばで話し相手になってくれた
クリスがいたからだと、
今ならそう思える。
(クリスがいたから、私は私でいられたんだよ…)
ただクリスの側にいたい。見守っていたいという一心でクリスの部屋まで着いてきたけれど、それから私が『音の妖精フォーニ』という存在になったのは、その意味を与えてくれたクリスがいたからだと思う。
暗い部屋の中、時計の音だけが静かに聞こえていた。
目を閉じて、私は思いにふける。
音の妖精フォーニとして在り続けた日々。
クリスと共に過ごした三年近くの時間は、
とても大切で、幸せな時間だったけれど。
フォーニが私だと気づかなかったなら。
もしクリスが、ピオーヴァで出会った誰か…
彼が言っていたリセさんやファルシータさんと親しくなり、卒業演奏のパートナーとして彼女たちを選んでいたなら。
私はあの部屋で、フォーニとしてクリスに簡潔な別れを告げて、
永遠に消えていなくなっていたと思う。
目を覚ますことなく静かに命を終えていた。
土の下で眠る私のために、クリスは鎮魂歌を奏でてくれたはずだ。
側で寄り添うトルタと共に、
私の魂の安らぎを祈って。
もし、クリスが私のことを思い出さなかったなら、
フォーニという妖精は、クリスの思い出の中にしか残らなかったはずだ。
まるで、存在そのものが夢や幻だったかのように。
(でも…わかってるよ。今のこの時間は、本当に夢のようだけど…)
それでも、これは夢じゃない。
それだけは確かなことだって知ってるから。
奇跡なら、一番最初に起こっていた。
事故で意識を失ったはずの私が、妖精の姿を象り彼の側にいられたこと。
そして彼だけが、私の存在に気づいてくれたこと。
クリスと共に暮らし、共に歌うことができる。
フォーニという存在で彼の側にいられたこと自体が、
私にとっては、これ以上ないほどの奇跡だった。
だから、それ以上を求めてはいけないと、ずっと思っていた。
それでもクリスは、私を求めてくれた。
故郷の街にいるはずの、トルタの作り出した、幻想の私じゃなく
眠り続けていた…本当の私を、思い出してくれた。
そして、誰よりも…トルタよりも、
私を、必要としてくれた。
クリスが思い出してくれた時、
私は泣きたくなるくらいに嬉しかった。
そして同時に思ったんだ。私を選んでくれたクリスのために、できる限りのことをしたいって。
その時の私は、こうして目を覚まして、またアリエッタとして生きられるとは思っていなかった。卒業演奏を終えてクリスと共にこの故郷への帰路につく時も、その先どうなるかなんて分からなかった。
列車の中、フォーニとして初めての眠気に襲われた時、私はここで消えるのかもしれないと思った。でもクリスはそんな私を手のひらに乗せて、優しく包みこんでくれた。
クリスの手の暖かさは、今でも鮮明に覚えている。
私の体が冷えて、風邪を引かないように。
雨に濡れないように、私の体をかばってくれた。
あの…事故に遭った時と、同じように。