「クリス…」
小さな声で彼の名前を呼ぶ。
起こさないように、でも届いてほしいと願うように。
気づけば、私は涙を流していた。
でも、それは過去を思い出しての悲しみの涙ではなかった。
「…愛してる」
眠るクリスに、私はその言葉を伝えた。
ただ、クリスが愛しい。
泣きたくなるくらい…本当に、大好きだから。
手を伸ばしたくなる衝動を抑え、苦しいほどの胸の熱さを感じながら。
もう何度も伝えたはずのその言葉を、改めてクリスに伝えた。
「僕もだよ、アル…」
「え…?」
気がつくと、眠っていたはずのクリスが目を開け、私を見つめていた。
「クリス…起きてたの…?」
ほんの少し前まで、クリスは確かに眠っていた。
たとえ目を閉じていようと、寝たふりをしているかどうかはすぐに分かる。
フォーニだった頃も、クリスが寝たふりをしている時はすぐに分かった。
そのはずだったのに…。
「泣いてるの?アル」
そう言われて、私は自分の涙を拭い笑顔を向けた。
「…ごめんなさい、起こしちゃったね」
「大丈夫。悲しくて泣いてたわけじゃないの。ただ…今までのことを少し思い出していただけ」
「それでね…クリスの寝顔を見てたら、何だかとっても安心しちゃって…」
申し訳なさそうに微笑む私の話を、
クリスは上半身を起こして聞いてくれた。
「本当はね、クリスが先に一人で寝ちゃって…それが少しだけ寂しかったの」
「でもね、クリスの寝顔を見て、すぐに思い直したんだ」
「こんなに近くにクリスがいて、これからもずっと一緒にいられるって思ったら、それがとても…幸せなことなんだって思ったの」
クリスは私の告白を聞くと、少し嬉しそうな顔をして
「アル。僕の方こそ、先に寝ちゃってごめんね」
「でも、また寂しくならないように、今日は一緒に寝ようか?」
穏やかな笑みをたたえたまま、そう言った。
「え……ええ!?」
クリスの提案に、私は急に我に返ったように慌ててしまった。
「ほら、アル。こっちにおいで」
クリスは毛布をめくり、私を誘ってくれている。
「う……うん」
私は少しためらいながらも、誘いのままにクリスのベッドに入った。
私が目覚めてからはいつも、手を伸ばせば届く距離にいてくれたクリス。
彼は今、私が手を伸ばさずとも触れ合えるほどの近くにいる。
恋人として、今まで何度も抱き合うことはあったし、
キスだって、私が求めればいつだってしてくれた。
今の私たちは一緒の家で暮らし始めた婚約者同士でもある。
それなのに、私は顔を赤くして身を縮めていた。
クリスの手が私の髪にそっと触れ、毛布の中で彼の温もりがすぐ近くに感じられた。心臓が速く鳴って、恥ずかしさで目を逸らしたかったのに、どうしても彼の顔から視線が離せなかった。クリスはそんな私を見て、くすっと小さく笑う。
「アル、顔が赤くなってるよ」
「…っ、それはだって、クリスが…」
私は慌てて毛布を少し引き上げて顔を隠そうとするけど、クリスがそれを優しく引き戻す。彼の指先が私の頬に触れて、柔らかな笑顔がそこにあった。
「愛してるよ、アリエッタ」
その言葉に、私は何も言い返せなくなってしまった。ただ、彼の瞳を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。クリスは私をそっと引き寄せ、額を軽く私の額にくっつけた。近い距離にドキドキしながらも、その安心感に身を委ねてしまう。
「クリス…あったかい」
「うん。僕もあったかいよ。こうやってると、すごく落ち着く…」
彼の声は穏やかで、少し眠たそうで、
そこには私を想う気持ちがしっかり込められていた。
クリスの腕の中で私は小さく息を吐き、彼の胸にそっと頬を寄せた。心臓の音が聞こえてきて、それがなんだか愛しくて…私は目を閉じた。
「ねえ、クリス。こうやって一緒にいられることが、本当に夢みたい」
「そうだね…でも、これは夢じゃないよ。僕たちはちゃんとここにいる」
クリスは私の髪を優しく撫でながら、そう答える。
その手つきがあまりに優しくて、私は思わず彼の手を握った。
彼も私の手を握り、指を絡めてくる。私はその感触にくすぐったさを感じながらも、ぎゅっと握り返した。クリスの指が私の指と重なり合うたび、言葉にしなくても伝わるものがある気がした。
「クリス、明日は一緒に朝ごはん食べようね」
「もちろん。アルが作るパン、楽しみにしてるよ」
「うん、私も、明日はクリスのフォルテールが聞きたいな」
そんなささいな約束を交わして、私たちは笑い合う。
クリスが私の額に軽くキスをして、
「おやすみ、アル」と囁く。
私は彼の胸に顔を埋め、「おやすみ、クリス」と返した。
毛布の中で互いの温もりを分け合いながら、静かな夜が二人を包んでいく。
眠りに落ちる前、クリスの腕の中で感じたのは、ただ純粋に彼を愛する気持ちだった。
過去も未来も、今はこの瞬間だけでいい。
そう思えたから、私の心は穏やかで、幸せに満たされていた。