『Non detto』 #2


「いい風だね、トルタ」
「うん…気持ちいい…」

姉さんが退院して少し経ったある日曜日。
私たちはピクニックに出かけた。

姉さんの作ってくれたお弁当をみんなで食べた後、
少しの眠気に襲われた私たちは、広げたブランケットに寝そべった。
見上げた空はどこまでも青く澄んでいて、木々の梢にはほんのり赤や黄が混じり始めていた。風に揺れるたび、その色が光を透かしてきらめき、夏の名残に小さな秋の気配を混ぜていた。

姉さんは退院してすぐにパン屋でアルバイトを始めていた。まだ長い時間は働けなかったけど、久しぶりに焼いたパンを嬉しそうに私たちの元に持ってきてくれた。

「一日でも早く、ちゃんと働けるようになりたいから」

そう言ってはにかむ顔を見て、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

目覚めないまま衰弱が進み「もう長くはもたない」とまで言われていた姉さんが、今こうして笑っている。
この幸せに比べたら、私の悩みなんて小さなもの。
今はただ、この時間を味わっていたかった。

「それじゃ、アンサンブルしよっか」

クリスはフォルテールを持ってきていたので、
私は久しぶりにクリスとのアンサンブルを提案した。

姉さんの身体が快方に向かい始めた頃から、私とクリスは仕事を探し始めた。最初はなかなか見つからなかったけれど、ピオーヴァ音楽院の卒業生という肩書や、その伝手を頼りに、少しずつ声をかけてもらえるようになった。そうして今では、教会や近隣の町の音楽教室で歌手や講師のアルバイトをしている。

姉さんが見守る中、クリスとアンサンブルが終わる。
去年の秋に数回練習した以来だったけれど、思いの外、上手く合わせられたと思う。

「次は…私も歌っていい?」

そんなふうに考えていた時、姉さんはそう切り出した。

「えっ…?」

正直、驚いた。
事故に遭う前、町の音楽教室に通っていた時は、あれほど私達の前で歌うことを避けていた姉さんが、自分から歌いたいと言い出したのだ。

「もちろんだよアル」

クリスは驚く様子もなく、今度は私が二人のアンサンブルを聞く番になった。

「それじゃあ…いくよ、クリス」
「うん、いくよ」

クリスの指が奏でたのは、アルも知っている子供向けの童謡。簡単な練習曲に相当するものだった。
姉さんの歌は相変わらず音程が合わず、お世辞にも上手いと言えるものではなかったけれど…姉さんは本当に楽しそうに、その一曲を歌いきった。クリスの演奏も、五年近くのブランクがあるはずのアルの歌声と、信じられないほどに調和していた。

その時ふと、クリスの卒業演奏の光景が脳裏に浮かんだ。

今でも信じられないほど、素晴らしい歌声を持った、目に見えないクリスのパートナー。
声楽科として、プロの歌唱は何度も聞いたけれど、あれほど胸を打つ美しい歌声は、聞いたことがなかった。

あの時クリスは「いつか私にもわかる時が来る」と言っていた。
でも、結局それが何だったのかは、私には分からなかった。

それはあまりにも幻想的な出来事で、姉さんが目覚めてからの日々の変化の中、いつの間にかあれは、私の見た夢だったんじゃないかとすら思い始めていた。

卒業演奏の後、私はクリスにそのことを聞かなかったし、クリスも私にその話をすることはなかった。

――でも…

「トルタ…?どうしたの?」

姉さんが首を傾げ、心配そうに私をのぞきこんでくる。

「…う、うん!なんでもない」
「久しぶりにアルの歌を聞いたから、ちょっと驚いちゃっただけ」

そう取り繕って、笑ってみせる。

胸の奥に、ほんのわずかなざわめきが残った。
けれどそのざわめきは、風と笑い声がさらっていった。

その後はおやつを食べながらの、他愛のない雑談になった。

 


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