『Non detto』 #8


ミサが終わり家に戻ると、家の中はしんと静まり返っていた。遅い時間なので、両親もきっと休んでいるだろう。

そっと靴を脱ぎ、自分の部屋へ向かう。リビングのドアの隙間からわずかに明かりが見えた。部屋に入る前に、両親に一言声をかけようかと少し迷ったが、やめておいた。

「ただいま」

小さな声でつぶやくと、そのまま自分の部屋へと入っていった。

ベッドに横たわり、天井を見つめる。教会での歌声がまだ耳に残っていた。誰かのために歌うことの喜び。その温かさが、旅立ちへの不安な心を少しだけ温めてくれるようだった。

疲れていたのだろう。私は、いつの間にか深い眠りに落ちていった。


 

――久しぶりに、夢を見た。
それはまるで、私が生まれてから今までの出来事を遡るような、断片的な夢だった。

アルとクリスの結婚式で歌ったときの光景。
卒業演奏の眩しい舞台の光。
姉さんの病室で泣きながら歌った声。
夕暮れの教室、クリスのフォルテールの旋律。
ずっと昔、川辺で二人の前で歌った幼い日の自分。

思い出の中の私は、いつも…歌を歌っていた。

 


朝の日差しに目を覚ます。
階段を降りると、父さんと母さんが何やら落ち着かない様子で私を待っていた。

「トルタ、おはよう」
「急でごめんね。私たち、これから病院に行ってくるから、トルタも後から来てくれる?」
「病院…?何か、あったの?」

突然のことに、私は両親に問いかける。

「ああ、実はな…アルの陣痛が昨夜から始まって、クリスと一緒に病院に行ってたんだ」
「昨日はミサに行けなくてごめんね。でも心配しないで、先生も『経過は安定している』って言ってくださったから」

「そう…なの…」

ようやく事態を飲み込めた私に、二人は「急がなくていいから、お前も後から来なさい」とだけ言い残して家を出ていった。

まだ夢を見ているようなふわふわした感覚を振り切るように、台所に用意されていたパンを急いで食べ終え、支度をして病院に向かう。

白い息を吐きながら坂を下り、私は病院の建物を見上げた。灰色の壁と古びた窓枠。変わらないその佇まいに、胸の奥が少しざわめく。
あの頃、ここは祈りと不安だけの場所だった。けれど今は、新しい命を迎える場所になろうとしている。

消毒液の匂いの漂う廊下を歩く。窓から差し込む光が、あの日とは違う、やわらかな色に見えた。

足を進め、病室の前で立ち止まる。
手を伸ばせば、すぐにでも扉を開けられる距離。

その時、扉の向こうから、声が響いてきた。

「アル、ありがとう…!元気な女の子だよ!」
「おめでとうございます!母子ともに健康ですよ!」

喜びに震えるクリスの声と、赤ん坊の力強い泣き声。
幸せに満ちたその音は、厚い扉を通して私の胸に届いた。

私は唇をかみしめ、そっと目を閉じる。

こみ上げる安堵と、切ない胸の熱さに、涙が頬を伝う。扉の向こうで響く笑い声と泣き声を、私は静かに受け止めた。

この扉を開けば、アルもクリスも、温かく迎えてくれるだろう。
幸せと祝福の中で、二人の間に生まれた新しい命を、抱きしめることができるだろう。

でも…そうなったら、私はきっと、この街から出ていくことが選べなくなる。
そんな確信があった。

取っ手からそっと手を離し、扉に背を向ける。
姉さんたちに気づかれないよう、私は足早に家へと向かった。

 


 

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