『Non detto』 #12


「クリス・ヴェルティンの音楽教室……?」

その噂を聞いたのは、故郷に向かう汽車に乗る前の、とある街だった。
ピオーヴァ音楽院を素晴らしい成績で卒業した生徒が、小さな街で音楽教室を開いているという。プロ志向ではないものの評判は上々で、遠くの街から学びに行く子供もいるという話だった。

クリスたちが買った家が、かつて通っていた音楽教室の先生が住んでいた家だということは知っていた。その一室を改装した音楽教室を、今はクリスが引き継ぎ、生徒たちを集めているのだという。

雪の降る故郷の街に汽車が着いた時、もう日はすっかり傾いていた。旅の疲れはあったけれど、私は二人にすぐにでも会いたかった。

かつての音楽教室の窓から光が見える。遅い時間だけど、まだ開いているのだろうか?
静かにドアを開き、中をのぞいてみる。

「すみません。ここって、クリス・ヴェルティンの音楽教室……ですよね?」

そこにいたのは、私が通っていた時と同じくらいの年頃の女の子だった。

「あ、はい。見学の方ですか?」

私は彼女といくつか言葉を交わす。
アルのことを知っていたので、私がアルの妹であることや、クリスが先生になる前に、この教室の生徒だったことを告げた。

二人を呼びに行くという彼女の言葉をやんわり断り、教室をゆっくりと歩く。手は加えられていても、漂う香りや温もりは昔のままで、懐かしさが込み上げてきた。

壁際のコルクボードに目が留まる。出席表や課題の日程表の横に、いくつかの絵はがきが貼られていた。それは、私が旅の途中で描いて送ったものだった。
澄んだ湖に映る雪山、茜に染まる町並み、そして最初に描いたあの大滝。

届いているのかすら分からなかった便りが、こうして大切に飾られているのを見て、心がじんわりと温まった。
 
「あの、私はもう出ますけど、アリエッタさんに声だけかけてみようと…思うんですけど……」
 
そう言ってくれた彼女に、微笑みで返す。
 
本当は、会うべきなのかも、少し迷っていた。
二人が幸せに暮らしている姿を見られたなら、またすぐ旅に出ようかとさえ考えていた。
 
――でも…
 

「トルタ!!」

少女が教室を出てしばらくしたあと、扉を開けて飛び込んできたのは、以前よりずっと綺麗で大人になった姉さんだった。

「トルタ……ああ……本当に……」

今にも泣きそうな顔になっている姉さんを、私は思わず抱きしめた。

「ただいま…アル」

胸の奥から、こみ上げるものがあった。
あんな別れ方をして、五年近くもの間、数枚の絵はがきしか送らなかった私を、姉さんはぎゅっと抱きしめ返し、涙を流していた。

「…おかえりなさい…トルタ…!」

その言葉を聞けた瞬間、胸の奥に張りついていた小さな後悔が、ようやく溶けていくのを感じた。

しばらくそのまま抱き合っていると、今度はクリスが教室に入ってきた。

「トルタ…」

クリスは私の姿を見ると目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
その微笑みは、昔から変わらない……あの日の彼のままだった。

「おかえり……トルタ」
「うん、ただいま…クリス」

私もそれに微笑みを返す。

話したいことは、本当にたくさんあった。
でも、二人を目の前にして、それは上手く言葉にできなかった。

「ねえ、クリス…アル」
「久しぶりに、アンサンブルをしましょう?」

だから私は、そう提案した。

二人は頷き、クリスがフォルテールの前に座る。

クリスが奏で始めたのは、幼い頃に三人で歌った、あのメロディだった。
姉さんの、昔より少しだけ上手くなった歌声が、クリスのフォルテールの音色にそっと寄り添う。
そして私は、その声に自分の声を重ねる。

心の奥で僅かに降り続いていた、最後の雨が、音の中に溶けていく。

言葉にしなくても、伝わるもの。
それは確かに、ここにあった。

 


 

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