夜。
私は、お義父様の書斎の前に立っていた。
今の私が感謝を伝えるべき相手、思いを伝えるべき相手。それを考えた時に、最初に思い浮かんだのは、お義父様の顔だった。
――伝えなきゃいけないことがある。
私を孤児院から拾ってくれた人。私に多くの可能性を与えてくれた人。
今まで私はお義父様のためにフォルテールを弾いてきたと思っていたけれど、それは私の独りよがりだったのかもしれない。
お義父様は、毎日私の練習のために時間を空けてくれた。ピオーヴァを代表する貴族でありフォルテニストであるお義父様は、いつも…寝る時間がないくらい忙しいはずなのに。
ただフォルテールを弾けるだけの孤児であった私に、何でそこまでしてくれるんだろうって、思ったこともあった。答えはまだ分からないけれど…
でも、そこには確かに…愛があったんだろうと
今は、そう思えている。
書斎のドアをノックし、扉を開ける。
窓から差し込む月の光に照らされながら、静かにフォルテールを奏でるお義父様がそこにいた。その姿はあまりに荘厳で、そして神秘的な光景だった。
お義父様のフォルテールの音色。
誰もが耳を傾け、惹きつけられる美しい音色。
そして…
…どうして今まで気付かなかったんだろう。今まで、何度も聞いてきたはずなのに。
その音色が、初めて会った時のクリスさんの音色と同じ、悲しみに彩られた音色だということに。
暫くの間、私はその音色に完全に心を奪われ、聞き入ってしまっていた。
曲が終わり、辺りにはさっきまでとは全く違う、ただ『静寂』のみが支配しようとしていた。
「……お義父様…」
油断をすれば、その言葉…それが現実であるということさえも、全てが静寂に飲み込まれて消えてしまうかもしれないと感じるほどに。
幻とも思える世界の中で、消えてしまいそうな時間の流れの中で、私は、義父様の言葉を待った。
「……リセ…か」
お義父様は、フォルテールの上に広げられてる楽譜から目を離すと、ゆっくりと、その視線を私に向ける。そして、長い沈黙の後に、まるで呟くかのように…そう言った。
「…こんな時間に、何をしている」
「……その…………私」
「……」
「お義父様に、伝えたいことがあって」
私はお義父様の目を見つめながら応えた。
決して、瞳をそらさないように。
「伝えたいこと、だと…」
「…はい」
重く整然とした口調で、私を見るお義父様。
私は、そんなお義父様の目が苦手だった。いつも私を責めるような、冷たい目線だと感じていた。でもそれは、私自身がこの人から目を逸らし続けていたからかもしれない。
改めて彼の目を見る。その眼差しに、凍るような冷たさを感じる、深い悲しみに彩られた瞳。だけど、それだけじゃないと私は感じた。
「お義父様………ありがとうございます」
私は頭を下げて、ただ…それだけを伝えた。
本当はもっともっと、たくさん伝えるべき言葉があった。だけど今の私には、その一言を伝えるのが、精一杯だった。
お義父様は何も言わなかった。
「部屋に戻れ」とも「何に対する感謝なのだ」とも。
…これで私の伝えたいことの全てが、伝わったとは思っていない。
ただ、私は感謝を伝えたかった。
私を拾ってくれて。
私にフォルテールを教えてくれて。
私を、ここまで育ててくれて。
――ありがとうございます。
と。
失礼します、と一言だけ添えて、私は逃げ出すように書斎を後にした。
心臓が高鳴っている。
あんなことを急にお義父様に伝えて、変に思われていないだろうか?
何に対しての感謝なのかすら、言葉にできなかった私に。
「でも…」
私は独り言のように呟いた。
『――それなら、私には何が出来るんだろう?』
ずっと考えて、行き止まっていた問い。それに対して私は、やっと一つの答えを出せたと感じていた。
お義父様の望む通り、私はフォルテニストとしての道を歩む。
『歌を歌いたい』その思いは今でも胸の中にあるけれど。
ただ、歌うことが目的なのかと言われたら、それは違うと今は思えるから。
フォルテールの練習を続けて、もっと上手くなって。
卒業して、私もプロになることができたなら、
その時は、既にプロになっているであろうファルさんと、一緒にまた演奏をしたい。
誰かのために、音楽を奏でたい。お義父様に、ファルシータさんに、私の演奏を聞いてくれる人たちのために。私の音で誰かの心を震わせることができたなら。誰かの心を満たすことができたなら。
それは素晴らしいことだと思うから。
あのクリスさんのように。
クリスさんの演奏に合わせて歌った、あの素晴らしい歌声の持ち主のように。
私はこれからの未来に思いを馳せながら部屋へと向かう。
――何かが変わったのかもしれない。
――何も変わらないのかもしれない。
それでも、ようやく見つけた私の答えを、
この気持ちを…大切にしたいと思った。