ピオーヴァ音楽学院。
数ヶ月前まで在学していたOBだったこともあり、私たちはすんなりと練習室を貸してもらえることになった。空いていたのが一番奥の練習室だったのが、少し心に引っかかったけれど。
「それで、私に何を聞かせてくれるのかしら?」
「なんだったら、あなたの演奏に合わせて歌ってあげてもいいわよ?」
笑みを浮かべてアーシノに語りかける。
かつて私たちは、こうやって音を合わせていたこともあった。
卒業演奏のパートナー候補として。
彼と組むつもりは最初からなかったけれど、私はその練習の中でも歌を妥協したことはなかった。
でも、アーシノのフォルテールには正直言って魅力がなかった。技量はそれなりにはあったけれど、彼はそもそも、フォルテールが好きではなかったのだから。
たった数ヶ月で私たちの偽りの関係は終わり、もう二度と会うこともないと思っていた。
けれど。
アーシノ・アルティエーレ。
アルティエーレ家はピオーヴァにおいてそれなりに歴史のある貴族の一族だ。ただ、目立った功績があるわけでもなく、貴族の中でも中の下と言ったところ。
私の援助者であるチェザリーニ家に比べれば差は歴然だった。
リセルシアはあれでもグラーヴェの養子としてフォルテールを教え込まれている。まだ拙いところはあるとはいえ、アーシノが奏でていたフォルテールに比べれば、幾らかはマシに思えた。
私がここに来た理由。返事をした時にはまだ形になっていなかったけれど。
彼が私に力を貸したいと言うのならば、万が一チェザリーニの援助が頼めなくなった時の、保険くらいにはできるかもしれない。そんな風に考えることにした。
彼があの件を吹っ切れているというのなら、友人として、付き合いを続けてあげてもいいかもしれないとまで考えていた。
「いや、いいよ、これは俺が最近作った曲でさ。楽譜も1枚しかないんだ」
そう言うとアーシノは持ってきたフォルテールを組み立て始めた。
私は壁に寄りかかり、彼の演奏を待つ。
正直、何一つ期待はしていなかった。
演奏に対して正直に評価を下し。それで彼の気が晴れてくれるなら、
それで私のことを綺麗さっぱり諦められるのなら、
それだけでいいとさえ、思った。
アーシノの演奏が始まる。
1つ1つ確かな指で、彼は曲を奏でていく。
その音色は、以前聞いていたアーシノの音色とはまるで違っていた。
技量的な成長も多少はあるのかもしれない。けれどそれ以上に、私はその音色に、僅かに…クリス・ヴェルティンに近いものを感じた。
――いや違う。
私はすぐに考え直した。彼の音色はこんなものではなかった。
深い悲しみに彩られた、全てが赦されるような調べ。
それがクリスの音であったはずだ。
クリスの奏でるフォルテールの音色には、他の生徒にはない魅力があった。
それを初めて聞いた時、私はとても美しい音色だと感じた。
技巧の差は歴然ではあったけれど、ピオーヴァでも有数のプロフォルテニストである、あのグラーヴェの奏でる音色に近いものを、確かに感じたのだ。
私は、クリスが欲しいと思った。
その音色は、私の夢を叶える大きな力になりえると思った。
それから私は、彼を得るためにあらゆる手段をとった。クリスとできる限りの時間を共にし、その中で彼と語り、彼と共に音を奏でた。
結果、それが功を奏し、クリスは私に好意を持ってくれた。私を卒業演奏のパートナーにしてくれると、言ってくれた。
その時は確かに嬉しかった…と思う。
だけどそれと同時に、私の心の中に言いようのない不安が生まれたのだ。
私は彼を試した。
本当の私の姿を見せ、それでも私を求めてくれるかどうか、試したのだ。
クリスの音色、その美しさの根源となっている”悲しみの音色”を更に深めるために。
そう、自分に言い聞かせて。
結果、彼は私の元を去って行ってしまった。
アーシノの演奏が終わる。
深い余韻の中で、私はあることを感じていた。
今まで彼の音色にこんなことを思ったことは一度もなかったけれど、今の演奏に関してだけいえば、
心地よい…と感じるものだった。
アーシノはかつてクリスの音を「全てが赦されるような気がする音」と表したことがあった。そして今、私自身の言葉でアーシノの音を表現するなら。
全てを捧げてくれるような、そんな音だった。
「…その癖は、今も変わらないんですね」
そう言われて、私は自分の手が胸のペンダントに触れていたことに気がついた。表面は手垢で汚れ、凹凸もすり減って殆ど無くなった、古い翼のペンダント。
彼がこのペンダントのことに触れるのは、これで2回目だった。
『薄汚れた翼は、でも、君に似合っていて美しい』
かつてアーシノは私にそう言った。
ただ、彼の心はその言葉ほど美しくはなかった。彼は優柔不断で、何事も自分で決められない性格だった。なりたいと言っていた詩人を目指すことさえも躊躇ってた彼は、所詮…大人になりきれない子供だった。
私は、自分で自分の道も決められないような人に興味はない。
かつて私は、そう結論を出した。
フォルテールは、奏者の感情によってその音色を変えるという。
怒り、悲しみ、楽しみ、或いは…喜びさえも。
ましてその曲が、たった一人のために作られ、捧げられた曲であるならば。それは時に言葉よりも雄弁に、思いを伝えるのかもしれない。
アーシノがこの曲に込めた感情。それは、コペルトで交わしたどんな言葉よりもはっきりと、私の心に響いた。
少しの間、目をつむる。
伝えるべき言葉は、決まっていた。
もう一度目を開け私は彼に伝えた。
私の、今の結論を。
「ごめんなさい」
「良い…演奏だったわ。でも、それでも…」
「それでも……」
『あなたには、私の夢は託せない』
私は、ペンダントを握りしめながらそう言った。
彼がもう少し早く、その音に辿り着けていたなら
或いは、違う未来も、あったかもしれないけれど。
アーシノは私の言葉を噛みしめるように目を閉じて。
そして言った。
「そうか。それなら…それならさ」
「俺は風になるよ」
「どこまでも、その翼が高く飛んで行けるように」