フォーニシナリオ考察

※注意:この先の文章はシンフォニック=レインの物語の重大なネタバレを含みます。
全エンディングをクリアしてから、お読み頂けるようお願いします。


フォーニシナリオをクリアし、シンフォニックレインという作品の全てを受け入れ、満足。または幸福感を持っている人にとっては、この先の文章はあまり意味がないものになります。
ですが、もしもフォーニシナリオに少しでも不十分さや違和感を感じているのであれば、どうかこの考察を一読して頂ければ幸いです。

私の意見はただ一つ。
以下の通りです。

『フォーニシナリオはシンフォニック=レインという物語の中において、alfineシナリオや他のシナリオと同等の価値を持つ、真実の結末の一つである』

◆目次◆
♪フォーニの存在証明
♪フォーニシナリオの持つ意味
♪フォーニシナリオへの懐疑点
♪最後に


♪フォーニという存在の証明

『フォーニはクリスにとっての雨と同じ「幻想」であり、実在しないのではないか』
という意見がファンの間で出たことがありました。

フォーニの声はクリスにしか聞こえない。
フォーニの行動は他者に影響を与えない。
プレリュード内においてもクリスはフォーニと出会った初期に「幻覚ではないか」と疑っていた事実があります。

作中においてフォーニが実在しないと仮定すれば、
al fineシナリオをもって物語は欠落なく完成することになり、
それはすなわち、アリエッタの物語とその思いを否定することになります。

もし作中にフォーニが登場していなかったとしたら。
アリエッタの意思は物語に介在せず、例えば三年前に既に死亡していたとしても、物語は成り立ってしまいます。

ここでまず考えるべきは、フォーニがクリスにどのような影響を与え
それが物語内においてどのような役割を持つかです。

フォーニの存在は劇中においては冒頭から確認することができます。
物語的には、クリスがピオーヴァにやってきた当初から既に関わっています。

三年間の生活において、クリスはフォーニがいた事で
多くの悩みを乗り越え孤独を和らげることができた、と言っています。
フォーニとの練習や交流を通して得た様々な事は
クリスという登場人物の基礎を構成する重要な意味を持っていることが分かります。

ではここで、フォーニが『確かに存在していた』という根拠を挙げてみます。

①クリスに対する精神的干渉
最も曖昧で、かつ最も重要なフォーニの存在理由。
『フォーニがいたからこそ、僕はこの町で孤独を感じる事も少なかった』というクリスの思い。
これは上記にも書いた様に、クリスの精神面を支え、孤独を和らげる要因になっていたことを証明します。

そしてもう一つ。リセ・ファル・トルタシナリオにおいてクリスが道に迷った時に
その悩みを聞き、アドバイス、或いは許しをもって彼の進む道を示したこと。
それがあったからこそ、クリスは重要な場面において自らの選択を為し。
その先々の未来に進むことができました。
このことからもクリスの精神面において、フォーニという存在が、
クリスにとって重要な意味を持っていたという証明になります。

②クリスに対する物理的干渉
クリスが自らの目で見て、実際に存在する物事として認識できるフォーニの言動。
そのうちの最たるものを幾つか挙げるなら。
・フォーニの歌声
・フォーニによる朝の目覚まし
・毎日玄関に用意してあるタオル
・玄関の鍵を開ける
・紙に文章を書く
上記二つはクリスの幻聴と言えなくもない事柄です。ですが下の三つは違います。

この三つはクリスの意思に関係なく用意され、そこに存在した物事として描かれています。
トルタやリセが部屋を訪れた時にもタオルが用意してあるのですから、
その存在自体が幻であったと言うことは出来ません。

最後の手紙にいたっては、劇中でフォーニが姿を消した時にクリスがその手紙を探し
『それは確かに存在していた』とまで明確に述べられています。
ここまで明確に存在が証明されている以上、手紙の実在を疑う余地はまず無いでしょう。
また、フォーニの作曲した歌詞付きの楽譜をコーデル先生に見せてもいます。
「クリスらしくない歌詞」との評価を受けたそれは、フォーニが作詞したもの。
この事から見ても、フォーニが物語に物理的に干渉している証明になります。

③クリス以外に対する精神・物理干渉
フォーニの存在を、つまりクリスの五感そのものまで疑うのであれば、
ここにおける証明が最も重要である、と言えるでしょうか。
フォーニがクリス以外に干渉した事を証明できる人間は
・トルタ
・ニンナ(プレリュードでの描写)
・フォーニの歌を聴いた学院の生徒の誰か
・カルツォーネ屋のマルコ
・卒業演奏時に、その演奏を聞いた人達(コーデル含む)

一人目のトルタについては、フォーニシナリオ以外でそれを証明できる重要な証人です。
トルタシナリオでトルタの家にフォーニと共に訪れた時、彼女の肩から降りたフォーニに対し
「なんか虫でもいたのかな…首元が急にくすぐったくなって」と発言しています。
alfineシナリオでも、風邪を引いたトルタは浅い眠りの中でフォーニの歌を聴き、声を聞いています。
またプレリュードのトルタの章においてニンナは「クリスとトルタしかいない部屋」の中から、”恐らくトルタであろう”と感じた子守唄を聞いています。トルタは部屋の中で眠っていたにもかかわらず。

四人目のマルコは、明確にフォーニの声を聞いています。
『最後までずっと合わせて歌っていた女の子』『プロといえるほどの歌声の持ち主』
条件を満たすのはフォーニ以外ありえません。

そして、最後の証人。コーデル先生他、大勢の審査員そして観客。
フォーニの声は、確かに彼らの耳に届いていました。

④フォーニ自身による存在証明
『雨の始まり』『猫と妖精と、時々雨』の二つの短編小説において
フォーニ=アリエッタであるということが、明確に示されています。
クリス視点ではなく、フォーニ視点。アリエッタ視点から語られるその二つの物語は、
存在そのものがフォーニの存在を示す、最も直接的な証明です。

この短編小説自体を疑ってしまえば、それはシンフォニックレインという物語全てを疑ってしまう事にもなりかねません。
フォーニの存在を、そしてアリエッタの意思の存在を、ここで疑う余地はないでしょう。

以上の全ての証明により
『フォーニは作中に確かに存在していた』
という結論を導きます。


♪フォーニシナリオの持つ意味

『フォーニは確かに存在した』という結論を踏まえて、次のことを考えましょう。
フォーニシナリオの持つ意味とは何であったのか。

フォーニの存在は、先のレビューにおいて述べたようにalfineEND後に残る最後の謎と呼べるもの。
交差する心の雨、主なる登場人物の中で唯一ここまで語られることがなかった
「アリエッタ」の心、思いが語られるシナリオがこのフォーニシナリオです。

アリエッタの思いがここで語られることにより、全ての登場人物の心の雨が揃い、
全ての未来、結末が示される事により、シンフォニック=レインという物語が完成します。
フォーニが存在している以上。このシナリオが作品を構成している大切なパズルのピースの1つであると言えるでしょう。

他の全てのシナリオにおいても、フォーニは劇中に確かに存在し、
クリスの行動、或いは決断を決めるキーキャラクターとして重要な意味を持ちます。
よってS=Rという物語は、始めからこの『フォーニシナリオが存在する事を前提に創られた物語』であるということが言えます。

『フォーニシナリオはS=Rにあって、おまけ、あるいは単なる救済シナリオのようなものではないか』
という意見に対して、以上の点からこういう結論を導きます。

『シンフォニック=レインは、初めからフォーニとそのシナリオが存在することを前提として作られた物語であり、フォーニシナリオは他のシナリオと同じ価値を持つ』

フォーニシナリオは他のシナリオと同等の価値を持つ、とは言いましたが、
このシナリオが「他とは違う特別なもの」「浮いている存在」
という風に感じる意見を、或いは違和感を私は否定しません。

ですが何故そのように見えるのか、或いは思うのか、
フォーニシナリオに投げかけられる、幾つかの意見を挙げて、それを考えて見ます。


♪フォーニシナリオへの懐疑点

1.このシナリオだけが、明らかなハッピーエンドとして描かれている。

2.ご都合主義とも言えるこのENDの結末は、S=Rという雨の物語に相応しくないのではないか?

3.al fineというシナリオの持つ意味が明確な『終わり』である以上。
da capoに含まれる、このシナリオは真のEDとはなりえないのではないか?

4.フォーニシナリオはクリスの幻想であったのではないか。
最後の病室で目を覚ましたアルは、実はトルタではないのか?

まずは一つ目。「このENDだけ明確なハッピーエンドであり、物語から浮いている」という意見。
そう感じるのも仕方はありません、alfineを含む他のシナリオにおいて、
主人公は様々な嘘や出来事に巻き込まれ、それはプレイした人の心にも疑心暗鬼を与えているはずです。
初見プレイではそのような複雑な…また懐疑的な思いを持ったままにフォーニシナリオを始めると、
このENDは裏も騙しも無く、あっさりとハッピーエンドに辿り着く。という印象を持ってしまい。
故に素直に結末を認められず、どこか疑いの目で見てしまう…という傾向があるのかもしれません。

ですが、ここでいう「ハッピーエンド」とは一体何でしょうか?
ハッピーエンド、すなわちそれが登場人物たちにとって幸せな結末であったかどうか。
それを決めるのは結局のところ『主観』です。

リセ、ファル、トルタを選んだクリスは。或いは彼女達はそれぞれの結末において
『幸せな結末ではなかった』と言うことはできるのでしょうか?
クリス自身はそれぞれのエンディングにおいて「これが自分の幸せだ」と結論付けています。
少なくとも私もこれらのシナリオ全てにおいて。
最終的にクリスとクリスが選んだパートナーについては『幸せな結末であった』と言えると思います。

或いは心が落ち着いた二週目のプレイ時においてなら、初回では受け入れられなかった結末も『幸せ』または『希望』の面を見つけ、受け入れることができるかもしれません。
よって”フォーニENDだけがあからさまに浮いている”と言うのは少々難しいのではないかとの結論を出します。

『全てのシナリオのENDも、見方によってハッピーエンドと呼べる』

次に二つ目。「ご都合主義とも言えるこのENDは、S=Rという話を陳腐なものにしていないか」という意見。

この「ご都合主義」とは何でしょうか?辞典によればそれは
「定見を持たず、その時、その場の都合や成り行きで、どのようにでも態度を変えること」
とあります。ゲームのシナリオとして捉えるならば、
「明確な伏線や説明、過程が描かれていないにもかかわらず。登場人物の思うように物語が進むこと」
でしょうか。

果たしてこれがフォーニシナリオに当てはまるのかどうか。
『三年間眠っていたアルが目を覚ました』という事実だけを捉えれば、
それは唐突なものであり、意図せずに主人公の望み通りになった「ご都合主義」である。
とも言えるかもしれません。

しかし、実際にその結末へ至る過程は決して唐突や生半可なものではなかったはずです。
ゲームのシステムで言えば、alfineを含む全てのシナリオの結末を迎えていなければ辿り着けないという「過程」
クリスの視点で言えば『何かを思い出す』決意をし『フォーニの歌を完成させる』という行動を為す必要があります。

もちろんその後の『フォーニと一緒にいることを望む』『フォーニを卒業演奏のパートナーとして選ぶ』
そして『全てを思い出す』という決断も、エンディングへと至る重要な要因であり、伏線であるといえます。

そうした過程と行動の末に、クリスの出した答えは
「例え目を覚まさなくても構わない、ずっと一緒にいる」という結論。

クリスはこの時点でアルが目を覚ますという奇跡を期待してはいないのです。
私自身。このENDでたとえアルが目を覚まさなかったとしても
それを受け入れ、その結末を喜んだとも思います。

“そこ”が、クリスにとっての到達点。

では「アルが目を覚ます」に至った残りの要因とは何であったのか。
これについて深くはキャラクター考察のアリエッタの欄で語りたいと思いますが。

結論から言ってしまえばこの2点。
『クリスには、自分が必要なんだ』と気づくこと。
『自分には、クリスが必要なんだ』と気づくこと。
この2つこそ、フォーニシナリオの結末に至る『絶対条件』と言えるものです。
それはすなわち、アリエッタ自身の選択と決断。

クリスが私を選んでくれた。トルタでもリセでもファルでもなく、
『幻想のアリエッタ』でもない。『本当の私』を、選んでくれた。
――だから私も、クリスの元へ帰らなきゃいけない。
――約束を、果たさなければいけない。

彼女の思いを知る為に必要な欠片は、その実フォーニシナリオだけでは不十分なのかもしれません。
しかし、それを知る為の術は十分に用意されています。
解らないとするならそれはただ、気づかないだけ。
思い出してください『da capo』という選択肢が持つ、もう一つの役割を。

フォーニシナリオのエンディングへ至る為の伏線は、S=Rの物語のありとあらゆる場所に
“アリエッタの思い”としてちりばめられているはずです。

『目を覚ましたと言う結末』はクリスとアルの二人の思い。
二人の辿り着いた”到達点”において起こり得た。一つの結果に過ぎません。

これをご都合主義と呼ぶか、陳腐と呼ぶかそれは自由です。
物語の雰囲気に合っているかどうかを考えるのも自由です。
ただ私は断言します。

『フォーニシナリオのENDは、起こり得るべきして起こり得た、一つの物語の結末である』

では三つ目。
“al fine”という音楽用語の持つ意味が明確な『終わり』である以上。
da capoに含まれる、このシナリオは真のEDとはなりえないのではないか?という意見。

これは難しい問いです。どこまでいっても明確な答えを得る事は出来ないかもしれません。
『真実』あるいは『真』という言葉の意味を問うことにすらなりかねません。
あまり難しいことは抜きにして、まずは音楽記号の意味についてから考えて見ます。

『da capo』 -曲の冒頭から -はじめから
『al fine』 -Fineまで -終わりまで

一つの曲においてda capoで始めに戻っても最終的にはal fineに辿り着く。
故に、S=Rの物語の最終的な終わりはal fineシナリオに他ならない、という意見です。

しかしこの意見に対しても疑問点はあります。
・alfineが明確な終わりを示すならば、なぜその後にフォーニシナリオが存在するのか。
・なぜalfineシナリオにおいて解かれていない謎が、欠けているピースが存在するのか。

al fineを本当の終わりにしたいなら、その前にフォーニシナリオを持ってくればいいだけの事です。
或いは『フォーニシナリオに入れる状態』にしておくだけでもよかったかもしれません。
けれど、そうではなかった。そうしなかった。
フォーニシナリオは、明確にal fineの後に位置づけられているのです。

ここから導き出せる仮説。一つは、

al fineシナリオが「終わり」であるとすること自体、この物語の最後に残された最後の『嘘』である。

とする説。実際、S=Rの物語を全て統括する言葉を選ぶとしたらそれは『嘘』ではないか。
そう思えるくらい、この物語には嘘が多いのです。

初期版のalfineENDにおいて、トルタは「ゲームクリアーおめでとう」という言葉を残します。
そのせいもあってか、da capoのフォーニルートに初めは気づかなかった人も多かったようです。
(なお、愛蔵版以降ではトルタのその台詞は削除されています)
かく言う私も、アルバムが埋まっていないことと、フォーニの存在が語られていないことの
違和感を得てネットで調べるまでは、その存在に気づく事が出来ませんでした。

「alfineシナリオのEND=物語の真の結末である」ことが偽であるとするなら。
da capoに隠されたフォーニENDの持つ役割が自然と決まってくることになります。

しかし、この仮説を立てるには『alfineENDを否定しなければならないかもしれない』という危惧があり、私にはそれはできません。

言えることとすれば『alfineシナリオでS=Rの物語は完全な終わりを迎えない』
ということだけでしょうか。

あえて断言します。
『al fineシナリオは一つの真実の結末である』

それではフォーニシナリオは真実ではないのか?
フォーニシナリオを迎えたとしても、最後に訪れる絶対の未来はalfineENDでしかないのか?

そこで取り上げるのはもう一つの仮説です。
フォーニシナリオもまた、alfineシナリオと同じく曲の終わりを意味するものである
とする説。

alfineENDは、クリスとトルタの物語の結末であり
フォーニENDは、クリスとアルの物語の結末である。
それらは全く同列にして、同じ意味を持つ真実であるとする意見です。

根拠を挙げるなら
・alfineEND、フォーニENDのどちらでも、S=Rエンディングテーマ「涙がほおを流れても」が流れること。
・クリスのトルタとアルへの思いは、トルタシナリオで語られているように
その物語の始まりの時点で、限りなく同等であったということ。
・トルタ・アル両名の姓がfineであり、alfineの意味「fineまで」を満たすこと。
・アリエッタ名前の語源が『al fine』であり、アリエッタ自身の存在が『da capo』に対する『al fine』の意味も満たすということ。

この4つ目の根拠はデジタルピクチャーコレクションで語られる西川氏の言葉からです。
アルは元々『アルフィーネ』というそのままの名前になっていた可能性もあったと語られています。

al fineシナリオでは、クリスはトルタを選び。
al fineシナリオの結末として、物語はひとつの終わりを向かえ。

da capoフォーニシナリオでは、クリスはアルを選び。
『da capo』-曲の始まりから弾きはじめた彼は、
『al fine』-アル・フィーネ すなわち『アリエッタ・フィーネ』の元へと帰った。

ここで一つ考えます。
『2つの物語が真だとしたら、トルタとアルEND以外の結末は真ではないのか?』
という疑問点です。

S=Rの物語は、登場人物の選択・決断によって様々な結末を迎えます。
そのどれ一つのシナリオとて、選択肢が無いシナリオは存在しません。
また、どの選択肢を選んでも同じ結末を迎えるシナリオも存在しません。

al fineシナリオであっても、最後の選択次第ではトルタシナリオ(表)と同じ結末へ向かい。
da capoトルタシナリオであっても、最後の選択次第ではal fineENDと同じ結末へ向かいます。
両者は明確に分かれるものではなく、al fineシナリオの結末もまた『da capo』に含まれていると言えるのです。

その中にあって『どれが最終的に行き着く結末なのか』を考えた場合。
それは『どれでもなく、どれでもありえる』という答えの他はないと考えます。

S=Rの物語において”絶対的な未来”は約束されていないのです。

それでも『真実』という言葉を使ってこの疑問に結論をつけるとしたら。

『トルティニタシナリオは真実である』
『ファルシータシナリオは真実である』
『リセルシアシナリオは真実である』
『al fineシナリオは真実である』

『フォーニシナリオは真実である』
私はそう結論付けました。

 

最後になります。

フォーニシナリオはクリスの幻想であったのではないか。
最後の病室で目を覚ましたアルは、実はトルタではないのか?

さて、この意見の上半分に対しては『フォーニの存在証明』で出した
『フォーニは作中に確かに存在していた』
という結論から、ここで考えるのは無しとさせていただきます。
では、下半分はどうでしょう。

正直に言います。
私はこの意見を最初に目にした時、一笑に付しました。
この意見を二度目に目にした時、眩暈がしたのを覚えています。
そしてこの意見を、三度目に目にした時。

これは考えるに値する と結論を出しました。

まとめます。
まずは『病室のアルはトルタ』である、とした場合の根拠。

1.トルタは劇中で1/20を境にEDにも登場していない。
2.雨の幻覚を見ていたクリスの主観は当てにならない。
3.トルタはalfine劇中で「もしクリスに必要なのがアルならば、
私はアルを演じ続けてもいい」といった旨の発言をしていること。

以上の理由から
『最後に病室で目覚めたアルは変装したトルタである』
とする推理です。
ただ、これらはいずれも確実な証拠はなく状況からの推測であるといえます。

まず1.トルタは劇中で1/20を境にEDにも登場していない。ですが
この件だけでは、直接的にアル=トルタを結びつけることは出来ません。

最終盤やEDにトルタが登場していない、というのであればファルシナリオにおいても登場していません。
よって「トルタがEDで登場しない」という件は特殊性を持たない出来事であると言えます。
ただ単に描かれていないだけで、トルタはアルとは別に生活していると考えるのが妥当でしょう。

2.雨の幻覚を見ていたクリスの主観は当てにならない。
確かにクリスは三年間雨の幻覚を見ていました。
しかし、三年間ずっと一人で(実際はフォーニと二人ですが)自炊生活をし
学園生活も「友人が少ない」という点以外、大きな問題なく過ごしていたことから、
クリスの自意識や五感は十分信用できるものであったと言えます。

トルタによって嘘の事実を信じ込まされていたにもかかわらず、
彼の言動は物語の節々で力強くあり、また自己の意思に反する行動を取るようなこともありません。
フォーニの存在を除けば『雨の幻覚』以外の幻視や幻聴を見たという描写もありません。
以上のクリスの状況から『クリスの五感全て』を疑うには、少々説得力が足りないように感じます。
クリスは、雨以外の事象については、騙されて知らずにいたこと以外、正しい認識が出来ている。
と考えます。

3.トルタはalfine劇中で「もしクリスに必要なのがアルならば、
私はアルを演じ続けてもいい」と言った旨の発言をしていること。
これについては、トルタは確かに劇中でそのような台詞を発しています。
しかし、全く同じ事柄で別の結論もまた、出しています。

12/18の時点で、トルタはクリスがアルを選んだ場合の行動として、
「例えアルの意識が戻らなくても、クリスがそれを克服できるのなら、私はそれを助けるだけだ」
と言っています。これはすなわち、最後までクリスが自分を選ばなければ
卒業後町に戻り、そこで眠っている姉さんに会わせる気であった。と言うことです。

12/25
「私の未来はクリスがきちんとアルの問題に向き合って、そこから始まると言ってよかった」

1/5
「アルのことも、卒業演奏が終わったあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。」
「そしてもし、アルのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう。
最後の瞬間まで優しくし、彼がアルの元へ戻った時に、
まだ姉さんのことを愛していられるように」
「その後のことは……正直わからない。
でもそれは、もう私の問題ではなくなっているはずだ。
二人に任せるしかない……正確には、クリス一人であったけど」
「でも、なんにせよ……私はもう、彼等の側にはいられないだろう
アルの側にいるクリスを、見守ることはできない。」

この1/5 最後の選択を考える時であっても、トルタはクリスがアルを選ぶならば
クリスの傍にはいられないと断言しています。

この事からトルタがアルの変装をして成りすます最終期限は、結末がどうであっても、
『クリスが故郷の町へと帰るまで』であったという事が伺えます。

この事によっても、導き出される結論は、上の推理に最も重要である
『トルタがアルに成りすます』という動機がない
ということを示しています。

自分は傍にいられない、ならアルとなって傍にいよう。
とまで、トルタが考えていたのなら別ですが…トルタのこれらの台詞や前後の言動から見るに、それは考え難いです。

では、次に『最後に病室で目覚めたのは、紛れも無く本物のアリエッタである』
とする、証拠を挙げていきます。
1.三年間も眠っていたアルの体が痩せ衰えていたこと。
2.長いリハビリを掛けて回復したこと。
3.フォーニが消えたすぐ後に、アルが目覚めたということ。
4.「私はいつも、あなたを別の方向へ導こうとして…」という台詞。
5.「いつもあなたからの手紙を読んでいたわ。あなたの傍で
あなたの奏でるフォルテールの音色を聞きながら」という台詞。

1つ目。
これは状況証拠です。トルタの体も華奢であったという描写が他シナリオにはありますが、3年間も眠り続けていた病人のそれと比べて、区別が出来ないというのは明らかにおかしいです。
2つ目も同じことです。
半年掛りのリハビリをもって回復をしたという過程を、
健康体であるトルタが演じることは不可能に近いでしょう。

万が一、医者や親たち全員がグルでそれを実行したとしても、
年に一度の変装デートとは比べ物にならない程の『バレる危険』が存在します。
半年間ずっと傍で看病していたクリスが、それすらも気づかない…というのは、
幾らなんでも無茶なことです。
体が痩せ衰えていたのも、リハビリが必要だったのもアリエッタ以外考えられません。

3つ目。
フォーニが眠りに着いたのは2/2です。クリスがアルの元に戻ったのは翌朝2/3。
万が一その時にアルが死亡したとしても。それをトルタが知り行動を起こすには時間が足りません。
既に故郷の町へ戻っていたという仮定も難しいです。
トルタシナリオでもアルの死を手紙で知って、それから町へ戻る選択をしています。
そうでないのにトルタが町に戻る理由が見つかりません。

4つ目と5つ目を考える前に確認します。
『トルタはこの時点でフォーニの存在を認識しておらず、フォーニ=アルという事実も知らない』
(フォーニ=アルが繋がらなければ、卒業演奏の歌が聞こえていたか否かはここでは関係ありません)
よって『トルタが演じる事ができるのは「三年間病室で眠っていたはずのアル」のみ』なのです。

それを踏まえた上で4つ目を考えます。
まず「三年間病室で眠っていたはずのアル」は決してこの言葉を言う事が出来ません。
更に言えばトルタが今まで演じていた「幻影のアル」であってもこの言葉は使えません。
他シナリオの終盤なら兎も角、フォーニシナリオの時点では
まだ手紙の中のやり取りでアルとクリスの仲は円満だったのですから。
そうでなくともトルタは、クリスが誰も選ばなければ彼をアルの方向へ導いていたはずです。
よってこの台詞を言えるのは、この時点ではフォーニであったアリエッタ以外考えられません。

5つ目も同じです。
4つ目と同じく「病床のアル」はもちろん。「幻影のアル」でさえもこれを言う事は出来ません。
手紙を読んでいたのは良いとします。しかし「あなたの傍で、フォルテールを聴きながら」
と語ることはトルタには出来ないのですから。
トルタが演じていたアルも、病室で眠っていたアルも、この言葉を使うことは出来ません。
『クリスの手紙を、クリスの隣で読んでいた』この言葉を使うことが出来るのは『フォーニであったアル』以外に無く。
トルタにそれを知る術もありません。

 

ここまでの証拠からでも
『最後に病室で目覚めたのは、紛れも無く本物のアリエッタである』
と結論付けるに十分かと思いますが。

それ以上に、もっと大切にして明確な証拠があります。
それは『トルタはアリエッタもまた、愛していた』という事実。

二人はとても仲の良い姉妹です。誰よりも互いを理解し、誰よりも互いを受け入れ、認めていました。
そんな姉妹にあって、トルタが『アルが目を覚ました』と知った場合に取る行動は
一つしかないはずです。

必ずトルタはアルに会いに来るはずです。三年間ずっと思い続けた姉の元へ。
いつしかトルタが希望すら持てなくなっていた、奇跡にも近い未来がそこに存在しているのですから。
クリスがどのような選択を取ろうが。それは関係ないはずです。

『私の未来はクリスがきちんとアルの問題に向き合って、そこから始まると言ってよかった』
トルタにとっての未来もまた、アリエッタの元に帰ってくるという結末の先に存在すると、私は確信しています。

 

フォーニENDのトルティニタは、幸せにはなれないのでしょうか?

そんなはずはありません。フォーニシナリオの結末は、恐らく
クリス・トルタ・アルの三人にとって、最も希望に溢れる青空が約束されている未来でしょう。
三人にとって、もしかしたらそれ以外の登場人物全員にとっても、
フォーニシナリオの結末は、幸せな未来の『はじまり』を意味するものであったと。私は思います。

結末(al fine)の後にある始まり(da capo)。
これって『al fineシナリオとフォーニシナリオの位置付け』にぴったり一致すると思いませんか?

 

少し横道にそれましたが、以上の証明により
『最後に病室で目覚めたのは、紛れも無く本物のアリエッタである』
という結論を出します。

これは今までの自分の考察やレビューの内容の中でも、最も確信を持って断言できます。


♪最後に

最後にここまでの意見をまとめたいと思います。

『フォーニは作中に確かに存在していた』
『フォーニシナリオは、S=Rの物語を構成する重要な要素の一部である』
『フォーニシナリオにおいて最後に病室で目覚めたのは、紛れも無く本物のアリエッタである』

以上の理由により、私はあらためて次の意見を提示します。

『フォーニシナリオはシンフォニック=レインという物語内において、alfineシナリオや他のシナリオと同等の価値を持つ真実の結末の一つである』