『amoroso』 #1


――あれから、もう一年になる。

長い時間のようにも感じていたけど
今となっては、一瞬のようだったとも感じる。
この一年は毎日が忙しくて、でも鮮やかで、
過ぎ去ってしまうのが、惜しいと思うほどだった。

ピオーヴァにいた三年間、
僕はこれ程の充実感を感じたことはなかったと思う。
もしもフォーニやトルタがいなければ、
それは何の思い出も残らない、灰色の時間だったのかもしれない。
だけど今は、そうやってピオーヴァで暮らしていた時間でさえも、大切に思えるようになっていた。

そして、これからの時間も。

「クリス、また考えごと?」
「うん、そうだよ」
「その癖だけは、今でも変わらないんだね」

優しく微笑むアリエッタ。

例えどんなに時が流れても、
僕はアリエッタの側にいる。
それだけは変わらない真実だ。

アルはもうすっかり元気な体になっていた。

長年アルを診てくれていた病院の先生も、
驚くほどの回復ぶりだった。
無理もない、三年間も眠っていたアルの体は、
意識が戻るどころか、いつ命を落としてもおかしくない状態だったのだから。

でも、目を覚ましてからのアルがここまで回復することができた一番の理由は、彼女が懸命にリハビリをしてきたからに他ならないと思う。

アリエッタが退院してからというもの、僕たちはそれぞれに故郷の街で仕事を見つけ、毎日懸命に働いていた。
アリエッタは、元々働かせてもらう予定だったパン屋に改めて手伝いとして働き始め、僕はなんとか街の郵便局での仕事を見つけ、それをこなしていた。

これからの未来、アルと二人で暮らす家を手に入れるために。

そうして半年、僕らは故郷の街に小さな家を持つことができた。
実際には、僕やアルの両親たちが援助をしてくれたおかげで、予定より早く自分たちのものにすることができたのだけど。もちろん、これからも働きながら、その分のお金は返済していくつもりだ。

まだまだ忙しい日々は続くだろう。
僕らには、家を手に入れた後の夢もあったのだから。


 

『私…もう一つ欲しいものがあるの』

半年ほど前、働き始めたアルは僕にそう言った。

「なんだい?」
「これはね。今の私の夢なんだけど、クリスに言ったら笑われるかもしれないんだ」
少し照れる様な顔をするアル。

「大丈夫、笑ったりなんかしないよ」
「…約束してくれる?」
「うん、約束するよ」
その言葉に安心したのか、アリエッタは少し間をおいてから
さっきよりも小さい声で言った。

「…音楽の学校」
「学校?」
「うん。この町の小さい子供たちを集めて、歌や演奏を教えるの」

音楽の学校。

僕は、昔アルたちと通っていた、
小さいけれど、いつも温かい空気に満ち溢れていた音楽教室のことを思い出していた。

「…やっぱり、可笑しいかな?歌も演奏も下手な私が言うのは」
「ううん。可笑しくなんか無いよ、とっても素敵な夢だと思う」

「そうかな…うん、そうだね。……それでね。私も教えてもらうんだ」
「歌を、クリスに教えてもらうんだ」
「そしてね。歌うの、クリスのフォルテールの演奏に乗せて」

希望に満ちた瞳で自らの夢を語るアリエッタ。
でもそれは、同時に『僕たち』の夢にもなった。

「でもその為には、たくさん練習しないとダメだね?アリエッタ」
僕は、少しだけ茶化してそう言った

「うぅ、クリスの意地悪」
ちょっとだけ悲しそうな顔をするアリエッタ。
だけど、それはすぐに元の笑顔に変わった。

そしてしばらくの間、僕たちは笑い合った。


 

「何を考えてたの?」
「うんと、今までのことかな」
「今までのこと?」
「うん。それと、これからのこともね」

音楽学校を開くためには、色々と必要なものがある。
実際にその夢を叶えるまでには、まだもう少し時間が必要となるだろう。
でも、それはいつか必ず叶えられる夢。
僕たちはもう、急ぐ必要はないのだから。

夜空一面に瞬く星空の下を、僕たちは歩いている。

「そろそろ帰ろうか?アル」
「そうね。今日は外食で済ませたし、家でゆっくりしましょう?」
「うん」

新しい家に引っ越して、色々と家具を運び込み、荷物整理も終えた翌日。
新居祝いも兼ね、父さんや母さんたちを誘って夕食を共にした帰り道だった。
僕たちにとっては、一緒の家で暮らし始める最初の日。

町の中心部に差し掛かる、
暗い夜でも時々は車が通る為、歩行者にとっては危ない道だ。

「アル、車には気をつけ…」

そこまで言いかけて、僕は不意に過去の光景を思い出していた。
二度と思い出したくない、一度は忘れてしまいたいと思ってしまったほどの出来事。

「…分かってるよクリス。でも、大丈夫だよ」
「私は、クリスを悲しませるようなことはしないから…もう、二度と…」

アリエッタも思い出しているんだろうか。彼女は少し空を見上げて、そう呟いた

「アル…」

でも僕は、その出来事を二度と忘れはしない。
そう誓ったんだ。

「それに…それにね」

―――その時、僕たちの隣を一台の車が通り過ぎた。

――

気づいたら僕は、歩道の脇でアリエッタを抱きしめていた。

「それに、私にはクリスがいるから」
「アル……」

僕たちはレストランを出る時からずっと、しっかりと手をつないで歩いていた。
そして、もう二度とその手を離すことは無い。

腕の中にいるアリエッタを、優しくそして強く抱きしめる。

「……本当に 帰ってきてくれたんだね」

昔よりも、少しだけ小さく感じるアルの体を抱きながら。僕は答えた。

「…うん、帰ってきたよ」

そして、僕達は口づけを交わした。

「…帰りましょう、私たちの家に」
「うん、帰ろう。僕たちの家に」


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