『教室の隅に まるでそこにいないみたいに…』
『言葉もなく 息を殺し 私はいたの…』
私は、歌を歌っていた。
誰も来ることのない、夕方の旧校舎の中で。
『窓の外には木漏れ日 木々の間を揺れてる…』
窓から差し込む夕陽だけが、私を照らしていた。
――私の居場所。
私が、私でいられる場所。
いつか先輩から教えてもらった、大切な場所。
ここにいる時だけは、私は自分のことを、ほんの少しだけ許すことができる
そう…思うことができる場所。
『……教室の隅に まるでそこにいないみたいに…』
昔から知っていた私の大好きな曲。それに自分でつけた歌詞に乗せて、私は歌っていた。
たった一つだけ。この歌だけを、繰り返し、繰り返し。
誰もいない教室の中で、私はふと「あの人」のことを思い出していた。あの人が最後にここに来てから、もう三週間近くがたっていた。
クリスさん。
交わした言葉は少しだけだったけれど、私の歌に合わせてフォルテールを弾いてくれた人。こんな私なんかに、優しく声を掛けてくれた人。
(…ごめんなさい)
心の中でそう呟く。私は結果的にクリスさんを拒絶してしまったんだと思う。私がもう少し心を開いていれば、或いは、またクリスさんと一緒に演奏する機会もあったかもしれないのに。
今さら思った所で、もう何も変えることはできないけれど。
(ごめんなさい)
私は心の中で、クリスさんに謝った。
そうすることしか、できなかった。
時計を見ると、もう時間は18時を回ろうとしていた。
荷物をまとめて、旧校舎を後にする。
ピオーヴァの新市街の外れにある大きな屋敷。
そこが、今の私の帰るべき場所だった。
「お帰りなさいませ、リセルシア様」
「はい、ただいま帰りました…」
屋敷の中で数人の使用人とすれ違い、挨拶をする。
大きな屋敷の割には使用人は少なく、それも家事などの仕事のある時間以外は館にいないため、彼女たちともあまり話す機会は少ない。
使用人たちに挨拶を済ませると
私は急いでお義父(とう)様のいる書斎へと向かう。
書斎の数回扉を叩き、その部屋の中に入る
「あの…申し訳ありません…お義父様…」
「…5分の遅刻だ、リセルシア」
義父様は私の方に振り返ることなく、ただ窓の外を眺め、佇んでいた。
「申し訳ありません…」
「まあいい。すぐに練習を始めろ」
「はい」
私は用意していたフォルテールを組み立てると
いつものように演奏を始めた。
演奏する曲は、全て義父様が用意してくれた楽譜のものだ。
最初の一曲を弾き終えると、少しの間手を止め義父様の言葉を待つ。
「…右薬指の抜きが遅い、記号にとらわれ過ぎている。それから、三小節目の長符の長さが足りん」
「はい、申し訳ありません」
それが、いつもの練習風景だった。
一曲を弾き終わり、修正箇所があればその曲をもう一度演奏する。
義父様の指摘がある限り、何度でも同じ曲を繰り返し。
その指摘が無かった時のみに、次の曲を演奏することができる。
義父様の指摘はいつも的確で、非のうち所のない正確なものだった。
「次。手を休めている暇など有りはしないぞ」
――それから二時間ほど経っただろうか
私は、今日の練習を始めてから数えて五曲目を演奏していた。いつもは三、四曲のことが多いので、これでも今日は多く弾けている方だった
「…止めろ、今日はここまでだ。夕食をとりに行け」
「はい…ありがとうございます」
演奏を終え、フォルテールをケースに戻す
「あの…」
「なんだ、まだ何か用事があるのか?」
「いえ…あの、その…お義父様のお食事は…」
私は恐る恐る義父様にそうに尋ねた。
義父様は余程のことがない限り、この夕方の練習を中止にすることはない。
そして、この言葉に対しての答えもまた、余程のことがない限り同じだった。
「私はこれから仕事がある。のんびりと食事などとっている時間はない」
「…すみません…」
「いらない事を考える暇があるなら、今日の演奏の反省点でも反復していろ」
「はい…分かりました。それでは、失礼します」
そうして私は、義父様の書斎を後にした。
チェザリーニ家の食堂。
元々忙しいお義父様と私以外に使われることがほとんど無いためか、大きな家の割には、かなり小さな造りになっている。
もちろん、それにした所で普通の家庭のものとは比較にならないほど広いのだけれど。
6人はゆうに座れる長テーブルの端に腰掛けると同時に
使用人さんの手によってテーブルの上に食事が運ばれてくる
(この前、義父様と一緒に食事をしたのはいつだっただろう…)
大きなテーブルには私一人。
湯気を立てている料理を口に運びながら、そんなことを考えていた。
(一ヶ月前かな…それとも二ヶ月前?)
結局いくら考えても、正確に思い出すことは出来なかった。
その後は自室に戻り、寝るまでの間フォルテールの自主練習をする。
そして、いつもと変わらない一日の終わり。
決められた生活 何も変わらない日常
満たされない心
私は、確かに『何か』を望んでいる。
だけど、私は…自らそれを拒んでいるのかもしれない。
傷つくことが怖くて。
誰かを傷つけてしまうことが怖くて。
今日私は、自分から何かを求めようとしたことがあった?
旧校舎で歌を歌ったことと
お義父様に食事のことを聞いたことくらい?
――違う。
私はただ、旧校舎で歌を歌っていただけ。
それによって変わっていくものは、何も無い。
義父様の食事のことだってそうだ、声をかけるのは毎日ではないけれど
答えはいつも同じだってことも分かっている。
分かっていて、それをただ繰り返しているだけ。
初めは違ったのかもしれない。だけど今は、
私が望んでいる答え…僅かな期待すら持つことができなくなっているような気がする。
そう、わたしはただ「待っている」だけ
弱い心。臆病な性格。そんなものを理由にして
――それなら、私には何が出来るんだろう?
その問いに辿り着いた時。私はそれ以上考えるのをやめた。
今まで何度もその「問い」に辿り着いたけれど
いくら考えても、その答えを得ることは出来なかった。
ベッドの中で、私は毛布に顔をうずめた。
浅いまどろみの中で、不意に浮かんだのはクリスさんの姿だった。
クリスさんとは以前旧校舎で数回会っただけで、まともに会話らしい会話をしたことすらなかった。けれど私には、どうしてもクリスさんのことで忘れられないものがあった。
(あの人…どこか、悲しそうだった…)
クリスさんの弾いたフォルテールの音には、何か深い悲しみが込められているような、そんな感覚を覚えたのだ。
(………)
…おかしな話だと思う。
私には、それが何かなんて知ることはできないし、
知り得た所で、私にできることなど何もないだろう。
それに…きっとクリスさんも、私を見て同じようなことを思っていたに違いない。
クリスさんの目に映った私は、きっと…矮小で情けない姿だったと思う。
(………………もう眠ろう……)
これ以上何かを考えたとしても、そこに見えるのは臆病な私自身の姿だけ。
全てを胸の奥にしまって、私は目を閉じる。
(明日もまた、歌を歌えるといいな…)
眠りに入る寸前、最後にそう願った
そうすることくらいが、今は精一杯だった。