お義父様から書斎への呼び出しがあったのは、今年の学校が終わってすぐのことだった。私がまともにフォルテールを弾けるようになってから始まった、年に一度、年末の孤児院巡り。
楽士を伴い、孤児院を巡り無償で演奏を行う。それを貴族の売名行為だと揶揄する声があるのも知っていたけれど、孤児だった私にとっては、その時間はお義父様の考えている以上に特別なものだった。
「失礼します」
それに加え、その年がいつもに増して特別だったのは、お義父様の「入れ」という声と同時に書斎に入ってきた、一人の女の人の存在だった。
「…ファルシータ先輩…?」
ファルシータ・フォーセット先輩。
ピオーヴァ音楽学院の三年生で、去年まで生徒会長を勤めていた人。歌が上手くて努力家で。それでいて誰に対しても優しい先輩。ファルシータさんには、学院内での私の状況を心配されて、今まで何度か声を掛けてもらったこともあった。
「こんにちは、リセさん。今年は私も孤児院巡りに参加させてもらうことになったの」
ファルさんは柔らかく笑った。
ファルシータ先輩は、同級生や下級生だけでなく、多くの先生方にも信頼され人望も厚い。それも当たり前だ。私はファルシータさんほど人ができていると思う方には、会ったことがないと思うほどだった。
歌の実力も申し分なく、ピオーヴァ学院で特別講義を行うことがあるお義父様が、彼女の歌に目を付けたのも頷ける話だった。
私は、ファルシータさんのことを尊敬していて、彼女のような人間になりたいと願ったことも何度もあった。もちろん…今の私では、遠く手の届かない夢ではあるのだけど。
「今年はお前たちで演奏を行ってもらう。出発は3日後、それまでに仕上げておくように」
お義父様は簡潔にそれだけを伝えると、私たちは書斎を後にした。
「よろしくお願いしますね、リセさん」
「はい…こ、こちらこそ、ファルシータ先輩!」
「あまりかしこまらないで、ファルでいいわ」
「あ…はい、よろしくお願いします、ファルさん」
それから3日間、短い時間だったけれど私たちは音を合わせ
そして、孤児院巡りが始まった。
アッズィーロさんの孤児院。私がかつて孤児として暮らしていた場所。少しだけカビ臭くて懐かしい、私の始まりの場所。
孤児院の子供たちが私たちのそばに寄ってくる。彼らにとっては一年に一度あるかどうかも分からない、特別な時間。私たちはその場所で、期待と羨望…憧れの目で見られていた。かつての私が、ごく稀に訪れる楽士たちに対して向けていた視線と同じように。
そんな中で私は運よく…本当に幸運に恵まれ、今のお義父様に拾われた。孤児院にあったフォルテールをあの時、偶然触らなければ、私にフォルテールの才がなければ。私の運命は全く別のものになっていただろう。
ここにいる子供たちにとって、貴族に拾われた私。孤児であった身から何不自由ない生活を手に入れた私は、羨望の的であり、夢や希望そのものなのだと今は理解できる。
『歌を歌いたい』
なんて今の私の願いなど、彼らの願いの前では一笑付される程度のものだろう。ファルさんとは違い、本当に幸運のみで今の生活を手に入れた私が、そんなことを願う権利なんて…ないのかもしれない。
『歌っていいんだよ』
そう言ってくれたクリスさんの顔がまた思い浮かぶ。
ファルさんと向かい合って子供たちのために演奏をするその最中。透き通るような声で歌うファルさんを見ながら、どうして私はこんな風に歌えないんだろうかと、羨ましく思った時だった。
クリスさんの優しいフォルテールの音色。その姿が心に浮かんでいた。
その夜は、ここが私の生まれ故郷だからという理由もあり、アッズィーロさんの孤児院に泊めてもらうことになった。ファルさんも私を気遣ってくれたのか、同じようにここで泊まることになった。
孤児院での夜、孤児であった頃のことを思い出していた私は、子供たちが寝静まった孤児院の廊下を歩いていた。目的は廊下の先にある居間。その居間の片隅に、きれいなカバーが掛けられた状態で、それはあった。
私の始まりであったフォルテール。
あの時、偶然にもこのフォルテールに触れたことで、私の人生は大きく変わった。今でも、ここにいる子供たちにとっては、このフォルテールは希望の象徴として扱われている。もしこの楽器が弾けたなら、きっと幸せになれる…と。
様々な思いを巡らせながら、始まりのフォルテールのカバーを外し。鍵盤に軽く触れる。ちょうどその時、そこにやって来たのは私と同じように眠れなかったから起きてしまったと言うファルさんだった。
ファルさんの提案で、その場で小さなアンサンブルをすることになった。
私たちは子供たちを起こさないように、優しい子守唄を奏で始めた。
月の光に照らされて、美しく歌うファルさん。羨ましいという気持ちもあったけれど、彼女の歌の前では私の悩みなんてとてもちっぽけなものに思えた。彼女の歌を聞けるだけで、私は幸せを感じていた。
ファルさんもかつて、私と同じような孤児であったことは知っていた。だけど、ただフォルテールが弾けるというだけでお義父様の養子になった私と違い、ファルさんは自分の力だけで…並々ならぬ努力を続けて今の立場を得ていた。何もかもが私とは違う。私のなりたかった、もうひとりの私。
「リセさん、そういえば今日のフォルテールの音は、昨日とは少し違ってたように思うけれど…」
ふと、ファルさんはそう言った。昼間、子どもたちの前で演奏した時の音色。ファルさんが違っていたというのなら、それは正しいのだろう。けれどその時の私は、ただクリスさんのことを思い出していただけ。クリスさんのフォルテールに合わせて歌っていた、幸せな時間を思い出していただけだった。
「…ここがあなたの生まれた場所だから?」
ファルさんはそう聞いてきた。それを明かしたわけではなかったが、今回巡る孤児院の中に私の孤児院があるという情報と、私の様子から察したのだろう。
「それも…あるかもしれません」
私は曖昧に返事をした。ファルさんもそれに納得したのか、明日行くファルさん自身が育った孤児院に向かう決意を固めていたようだった。
翌日、ファルさんと私たちはファルさんのいた孤児院に到着した。
ファルさんのいた孤児院は、私のいた孤児院よりもずっと狭くて、汗とカビの匂いのする場所だった。
「お姉ちゃんはここからがくいんにいったの?」
中に案内され、保護者のモデストさんに挨拶を交わすと、ファルさんは孤児の一人に裾を掴まれ、質問をされていた。ファルさんがかつてこの場所で、どれほど過酷な生活を送っていたのか。どれほどの努力をして、ここから抜け出すことができたのか。そんなことに思いを巡らせていた私は、ファルさんの言葉に耳を傾けた。
「君もなれるよ。努力をすれば…一生懸命頑張れば、なんだってできる」
私はその言葉に目を潤ませた。彼女は本当の意味で、ここにいる孤児たちの希望なのだ。
私とは違う、私は孤児の子どもたちにそんな言葉を掛ける資格すら…ないのだから。
ファルさんは、本当に心から歌を歌うことを愛しているように見えた。いつも優雅で優しいファルさんだけれど、歌を歌っている時の彼女は、何かから解放されているような…自由に誇らしく歌っているように見えた。
歌を歌って生きていく。
それがどれほど難しいことなのか、今の私にも多少は理解できる。恵まれた境遇、恵まれた教育の下にあっても、それは並大抵の努力では不可能だろう。まして孤児であった彼女がその夢を手に入れるために、どれほどの努力と時間を費やしてきたのか。私には想像もつかない。
歌を歌うことが好きだから。
そんな理由で歌っている私とは、何もかもが違った。ただ、その時の私は自分の惨めさよりも、そんなファルさんのために、何かしてあげられることはないだろうかと、そんなことを考えていた。
そして、私は自らの持つフォルテールを、そっと見つめた。
ファルさんと共に孤児たちの前で音楽を奏で、気付けば夕刻だった。私たちはモデストの孤児院を出る準備をする。
既にお義父様が乗り込んでいる車の前で。私はファルさんを待っていた。ファルさんは、モデストさん達と別れを惜しんでいるのかもしれない。
しばらくするとファルさんが孤児院の中から出てきた。私はドアを開け車に乗り込み、ファルさんも車に乗ろうとする。その少し前、孤児院を発とうとする彼女の裾を掴もうとする、あの子供の姿が見えた。
――ただ、彼の手はほんの少しだけ、ファルさんには届かなかった。
「遅くなりました。出して下さい」
ドアを閉め。車はモデストの孤児院を出発する。
「…いいんですか?ファルさん…その、私みたいに…孤児院に泊まったりは…」
そう声をかけると、ファルさんは一瞬だけ何かを考えるような顔をし、そしてすぐ柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「…いいの。私が泊まれば、その分だけあの子達の食事が減ってしまうから…」
もし、ファルさんがこの孤児院で泊まることになったなら、私もそれに付き添って泊まろうと考えていたけれど…。
その答えに納得しながらも、私は振り返った。
もうあの子供の姿は、見えなくなっていた。