孤児院巡りも終わり、年も明けて再び学院生活が始まる。
ファルさんとの距離は、前よりずっと近付いた気がしていた。
「あの…機会があれば、また一緒に演奏してもらっていいですか?」
ファルさんとの別れ際、私は勇気を振りしぼってそう声をかけた。
ファルさんは優しい笑顔で「ええぜひ、こちらからもお願いしますわ」と答えてくれた。その後もファルさんは私の顔をじっと見つめ、何かを考えているようだった。
「あの…卒業発表会、もうすぐですよね?」
「あ…うん、そうね」
私はそんなファルさんに声をかける。
「応援しています。必ず、聞きに行きますから」
私は笑顔でそう伝えた。
本当はもっと実力があれば…或いは、クリスさんのようなフォルテールを私が奏でられたならば。私がファルさんの卒業演奏のパートナーに、ファルさんの力に…なれたかもしれない。そんな、思い上がったようなことを…ほんの少しだけ考えながら。
ファルさんは私を見て、少しだけ何かを諦めたような顔をして
「ありがとう、頑張ってみるわ」
と、再び微笑んでくれた。
ファルさんの卒業演奏がソロで行われることを知ったのは、その少し後のことだった。
1月20日。
ファルさんの卒業演奏はソロのため今日ではなかったけれど、私はある人の卒業演奏を聞くために、学院のホールへと向かっていた。
クリスさん。
私に声をかけてくれた優しい先輩。
私に、歌ってもいいんだよと言ってくれた人。
私の全てを許してくれるような…
それでいて、どこか悲しく、そして美しいフォルテールの音色を奏でる人。
私はクリスさんの発表を聞くため、席に座ってその時を待つ。
横断幕が上がり、そこにはフォルテールの前に座るクリスさんがいた。
だけど、おかしい。クリスさんのパートナーの姿が見えない。何かトラブルがあったんだろうか?私は心配そうに彼を見つめる。
声楽科はソロでの発表も許されるけれど、フォルテール科はそうではない。必ず、一緒に歌う人とペアで発表しなければならないのだ。だからきっとクリスさんのパートナーも何かの理由で遅れているだけだろうと、そう思って待っていた。そして、
演奏が、始まった。
クリスさんの奏でるフォルテールの音色は、以前私が聞いた時よりも、遥かに美しく洗練されていて。それでいて、以前とはまるで、異なる音を奏でていた。
悲しみが込められた音色。
私はクリスさんの演奏を初めて聞いた時に、そう思った。
けれど、その時のクリスさんの音に込められていたのは。悲しみではなかった。
全てを受け入れてくれるような、優しくて、
そして、愛おしむような…幸せの音色。
だけど、私が心を揺さぶられたのは。クリスさんのフォルテールの音色だけではなかった。
ステージの上には、クリスさんしかいない。
クリスさんのパートナーは、結局、彼が弾き始めるまで現れることはなかった。
それなのに…その歌声は、確かに私の耳に届いていた。
天使の歌声、なんて言えば陳腐に聞こえるかもしれない。だけど私にはそう形容する以外に、その素晴らしい歌声を言い表せる言葉がなかった。透き通るようなソプラノ。今までに聞いたどんなプロの歌手でも及ばない至上の歌声。
何よりその声には、クリスさんのフォルテールに込められた思いと同じか、それ以上の力強さ。そして……愛が、満ち溢れていた。
私は、その歌声を聞いて、気付けば涙を流していた。
演奏が終わり、会場が溢れんばかりの拍手に包まれている中で。私は拍手すらできずに胸を抑えていた。
その後の卒業生の演奏を聞くことなく、放心状態で私はホールの外に出ていた。何が起こったのか、正直分からない。まだ音色が耳に残る今ですら、それが全て夢だったのではないかと思うほどの出来事だった。
「リセさん…?」
「…ファルシータ先輩」
ホールの外で佇んでいた私をファルさんが見つけ、声を掛けてくれた。校舎の方から歩いてきたようなので、クリスさんの卒業演奏は聞いていなかったのだろう。
「どうしたのリセさん?会場に入らないの?」
「ああ…いえ、あの、その…」
困惑する私を訝しむように見つめるファルさん、それに気付いて私は言葉を重ねた。
「…ファルさんは、卒業演奏を聞きに来たんですか?」
「ええ、私も本番が近いからね。午前中はレッスン室で練習をして。…それより、何かあったの?」
ファルさんは心配そうに私の顔を見る。ファルさんに、どう説明すればいいんだろう?
「あの…私、クリス先輩の演奏を聞きに来て…」
「…!リセさん、クリスさんのことを知ってるの?」
「え?…は、はい!あの私…以前、クリス先輩に声を掛けられたことがあって…」
「私に気を使ってもらって…その時に、クリスさんのフォルテールを、聞かせてもらったんです…」
旧校舎で隠れるように歌を歌っていたことは、敢えて伏せて私は話した。ファルさんになら話してもいいとも思ったけど、今はそれは大切なことじゃなかったから。
「それで…クリスさんに何かあったの?…まさか、演奏で失敗を…?」
ファルさんの問いかけ。彼女もクリスさんとは面識があるようだった。ファルさんもクリスさんと同じく、私を気遣ってくれて声を掛けてくれた人であり。学院内で流れる私の悪い噂のことも知った上で、力になりたいと言ってくれた人だった。
ファルさんと話をする内に、段々と落ち着いてきた私は。まっすぐファルさんを見据える。
「クリスさんの発表は…本当に素晴らしいものでした。沢山の方が大きな拍手で…演奏を称えていましたから…」
「歌も演奏も…本当に素晴らしいものだったんです…でも」
「でも…?」
「…声は聞こえるのに、そのパートナーの姿が見えなかったと言ったら、ファルさんはどう思いますか…?」
「……え?」
いまいち状況の飲み込めないファルさんに、私はハッとして言葉を続けた。
「いえ…何でもないです。とにかく、素晴らしい演奏でした」
「……そう、なの」
クリスさんの演奏が成功したことは間違いない。今のファルさんに伝えるべきは、余計なことを話して混乱させることじゃなく。彼女に安心してもらうことだと、私は思った。
暫くの間、ファルさんは何かを考えるような仕草をしていた。
「先輩は…もうすぐ卒業してしまうんですね」
「…うん…そうね?」
「卒業した後も…私と一緒に、演奏してくれますか?」
それは孤児院巡りの後に伝えたものよりも、より強い意志を込めた言葉だった。
「それは…構わないけど…」
「ありがとうございます!」
ファルシータさんは、私に大切な事を教えてくれた。
もしも先輩がいなかったら、私はまだ、昔のままだったかもしれない。 私は、心からの感謝をこめてそう言った。
私は、いつも自分のことばかりに必死になっていて、周りの人に何かをしてあげたいと思う余裕が、なかったんだと思う。だけど、ファルさんとの孤児院巡りを経て、そしてあのクリスさんの演奏を聞いて、私はある思いを持つようになっていた。
誰かのために、思いを…感謝を伝えられるような。そんな音楽を私も奏でてみたい…。私の大切な人に、私を大切に思ってくれている人に、私から何かを与えられるように。
思いを、伝えられるように。
クリスさんのフォルテールには、誰かを強く思う心が込められていたと、感じたから。
「待って、リセさん」
挨拶を済ませ、学院を立ち去ろうとした私に今度は先輩が声を掛けてきた。
「はい?」
「リセさん…変わったね」
「…え?」
「……」
ファルさんは少しだけ寂しそうな顔をして、私に尋ねた。
「…リセさんは……これからどうするの?」
ファルシータさんは、私を見つめながらそう問いかけた。
なぜなのかは分からなかったけれど、その問いかけは、単純にこれからすることを聞いているのではなく。『この先の私の未来』を聞いているのだと感じた。
「私…」
――だから、私は答えた。
――私の今の…本当の思いを
「私は…大切な人のために、しっかりと思いを伝えられるようになりたいです」
「いつも、貰ってばかりだった私が…誰かのために、誰かの心に届くような音楽を奏でられるなら」
『それが歌でなくても、構わないと思ったんです』
そう、私は言い切った。
「…そう」
暫くの沈黙の後、ファルシータさんは私に強い眼差しを向けた。
でもそれは一瞬の事で、 次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っていた
「それじゃあ、また明日、会えたらいいね」
「…はい。卒業発表、必ず聴きに行きます」
そうしてファルシータさんと別れ、私は歩き出した
彼女とは、少しだけ違う道を。
でも或いは、いつか交わるかもしれない道を。
青く澄んだ空を見上げながら 私の足は、少しだけ駆け足になっていった、