『ちいさな青空』 #3


孤児院巡りも終わり、年も明けて再び学院生活が始まる。
ファルさんとの距離は、前よりずっと近付いた気がしていた。

「あの…機会があれば、また一緒に演奏してもらっていいですか?」

ファルさんとの別れ際、私は勇気を振りしぼってそう声をかけた。
ファルさんは優しい笑顔で「ええぜひ、こちらからもお願いしますわ」と答えてくれた。その後もファルさんは私の顔をじっと見つめ、何かを考えているようだった。

「あの…卒業発表会、もうすぐですよね?」
「あ…うん、そうね」

私はそんなファルさんに声をかける。

「応援しています。必ず、聞きに行きますから」

私は笑顔でそう伝えた。
本当はもっと実力があれば…或いは、クリスさんのようなフォルテールを私が奏でられたならば。私がファルさんの卒業演奏のパートナーに、ファルさんの力に…なれたかもしれない。そんな、思い上がったようなことを…ほんの少しだけ考えながら。

ファルさんは私を見て、少しだけ何かを諦めたような顔をして

「ありがとう、頑張ってみるわ」

と、再び微笑んでくれた。

ファルさんの卒業演奏がソロで行われることを知ったのは、その少し後のことだった。


 

1月20日。
ファルさんの卒業演奏はソロのため今日ではなかったけれど、私はある人の卒業演奏を聞くために、学院のホールへと向かっていた。

クリスさん。
私に声をかけてくれた優しい先輩。
私に、歌ってもいいんだよと言ってくれた人。
私の全てを許してくれるような…
それでいて、どこか悲しく、そして美しいフォルテールの音色を奏でる人。

私はクリスさんの発表を聞くため、席に座ってその時を待つ。

横断幕が上がり、そこにはフォルテールの前に座るクリスさんがいた。
だけど、おかしい。クリスさんのパートナーの姿が見えない。何かトラブルがあったんだろうか?私は心配そうに彼を見つめる。

声楽科はソロでの発表も許されるけれど、フォルテール科はそうではない。必ず、一緒に歌う人とペアで発表しなければならないのだ。だからきっとクリスさんのパートナーも何かの理由で遅れているだけだろうと、そう思って待っていた。そして、

演奏が、始まった。


 

クリスさんの奏でるフォルテールの音色は、以前私が聞いた時よりも、遥かに美しく洗練されていて。それでいて、以前とはまるで、異なる音を奏でていた。

悲しみが込められた音色。
私はクリスさんの演奏を初めて聞いた時に、そう思った。
けれど、その時のクリスさんの音に込められていたのは。悲しみではなかった。

全てを受け入れてくれるような、優しくて、
そして、愛おしむような…幸せの音色。

だけど、私が心を揺さぶられたのは。クリスさんのフォルテールの音色だけではなかった。

ステージの上には、クリスさんしかいない。
クリスさんのパートナーは、結局、彼が弾き始めるまで現れることはなかった。

それなのに…その歌声は、確かに私の耳に届いていた。

天使の歌声、なんて言えば陳腐に聞こえるかもしれない。だけど私にはそう形容する以外に、その素晴らしい歌声を言い表せる言葉がなかった。透き通るようなソプラノ。今までに聞いたどんなプロの歌手でも及ばない至上の歌声。

何よりその声には、クリスさんのフォルテールに込められた思いと同じか、それ以上の力強さ。そして……愛が、満ち溢れていた。

私は、その歌声を聞いて、気付けば涙を流していた。

演奏が終わり、会場が溢れんばかりの拍手に包まれている中で。私は拍手すらできずに胸を抑えていた。


 

その後の卒業生の演奏を聞くことなく、放心状態で私はホールの外に出ていた。何が起こったのか、正直分からない。まだ音色が耳に残る今ですら、それが全て夢だったのではないかと思うほどの出来事だった。

「リセさん…?」
「…ファルシータ先輩」

ホールの外で佇んでいた私をファルさんが見つけ、声を掛けてくれた。校舎の方から歩いてきたようなので、クリスさんの卒業演奏は聞いていなかったのだろう。

「どうしたのリセさん?会場に入らないの?」
「ああ…いえ、あの、その…」
困惑する私を訝しむように見つめるファルさん、それに気付いて私は言葉を重ねた。

「…ファルさんは、卒業演奏を聞きに来たんですか?」
「ええ、私も本番が近いからね。午前中はレッスン室で練習をして。…それより、何かあったの?」

ファルさんは心配そうに私の顔を見る。ファルさんに、どう説明すればいいんだろう?

「あの…私、クリス先輩の演奏を聞きに来て…」
「…!リセさん、クリスさんのことを知ってるの?」
「え?…は、はい!あの私…以前、クリス先輩に声を掛けられたことがあって…」

「私に気を使ってもらって…その時に、クリスさんのフォルテールを、聞かせてもらったんです…」

旧校舎で隠れるように歌を歌っていたことは、敢えて伏せて私は話した。ファルさんになら話してもいいとも思ったけど、今はそれは大切なことじゃなかったから。

「それで…クリスさんに何かあったの?…まさか、演奏で失敗を…?」

ファルさんの問いかけ。彼女もクリスさんとは面識があるようだった。ファルさんもクリスさんと同じく、私を気遣ってくれて声を掛けてくれた人であり。学院内で流れる私の悪い噂のことも知った上で、力になりたいと言ってくれた人だった。

ファルさんと話をする内に、段々と落ち着いてきた私は。まっすぐファルさんを見据える。

「クリスさんの発表は…本当に素晴らしいものでした。沢山の方が大きな拍手で…演奏を称えていましたから…」
「歌も演奏も…本当に素晴らしいものだったんです…でも」

「でも…?」
「…声は聞こえるのに、そのパートナーの姿が見えなかったと言ったら、ファルさんはどう思いますか…?」
「……え?」
いまいち状況の飲み込めないファルさんに、私はハッとして言葉を続けた。

「いえ…何でもないです。とにかく、素晴らしい演奏でした」
「……そう、なの」

クリスさんの演奏が成功したことは間違いない。今のファルさんに伝えるべきは、余計なことを話して混乱させることじゃなく。彼女に安心してもらうことだと、私は思った。

暫くの間、ファルさんは何かを考えるような仕草をしていた。

「先輩は…もうすぐ卒業してしまうんですね」
「…うん…そうね?」
「卒業した後も…私と一緒に、演奏してくれますか?」

それは孤児院巡りの後に伝えたものよりも、より強い意志を込めた言葉だった。

「それは…構わないけど…」
「ありがとうございます!」

ファルシータさんは、私に大切な事を教えてくれた。
もしも先輩がいなかったら、私はまだ、昔のままだったかもしれない。 私は、心からの感謝をこめてそう言った。

私は、いつも自分のことばかりに必死になっていて、周りの人に何かをしてあげたいと思う余裕が、なかったんだと思う。だけど、ファルさんとの孤児院巡りを経て、そしてあのクリスさんの演奏を聞いて、私はある思いを持つようになっていた。

誰かのために、思いを…感謝を伝えられるような。そんな音楽を私も奏でてみたい…。私の大切な人に、私を大切に思ってくれている人に、私から何かを与えられるように。
思いを、伝えられるように。
クリスさんのフォルテールには、誰かを強く思う心が込められていたと、感じたから。

 

「待って、リセさん」

挨拶を済ませ、学院を立ち去ろうとした私に今度は先輩が声を掛けてきた。

「はい?」
「リセさん…変わったね」
「…え?」
「……」

ファルさんは少しだけ寂しそうな顔をして、私に尋ねた。

「…リセさんは……これからどうするの?」

ファルシータさんは、私を見つめながらそう問いかけた。

なぜなのかは分からなかったけれど、その問いかけは、単純にこれからすることを聞いているのではなく。『この先の私の未来』を聞いているのだと感じた。

「私…」

――だから、私は答えた。
――私の今の…本当の思いを

「私は…大切な人のために、しっかりと思いを伝えられるようになりたいです」
「いつも、貰ってばかりだった私が…誰かのために、誰かの心に届くような音楽を奏でられるなら」

『それが歌でなくても、構わないと思ったんです』

そう、私は言い切った。

「…そう」
暫くの沈黙の後、ファルシータさんは私に強い眼差しを向けた。
でもそれは一瞬の事で、 次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っていた

「それじゃあ、また明日、会えたらいいね」
「…はい。卒業発表、必ず聴きに行きます」

そうしてファルシータさんと別れ、私は歩き出した
彼女とは、少しだけ違う道を。
でも或いは、いつか交わるかもしれない道を。

青く澄んだ空を見上げながら 私の足は、少しだけ駆け足になっていった、


<prev next>