『片翼の翼』 #1


「……ごめん。やっぱりそれは無理だよ」
「僕には、君の考え方は理解できない」

それが彼…クリスの出した結論だった。

「そう…」

独り言のように呟いた。

「そうね。きっとあなたは、その方が幸せになれるでしょうから」

それは本当だと思う。

クリスのことについて、私はかなり多くを知っていた。少なくとも、そのつもりでいた。
だから分かる。

クリスは幸せにはなれない。だから私は、クリスの傍にいたかった。

それも本当だと思う。

私なら幸せにできるから。

そう、それも嘘。
いえ、それは、嘘。

でもそんなことは関係なかった。
ただ、私を選んでくれさえいれば。
私は彼を…一生愛すると誓えていたと、思う。

でも、彼は私を愛してはくれなかった。
彼は、私のものにはならなかった。


卒業演奏で高い評価を受けた私は、多くの楽団から勧誘を受けた。
そして私は、その中でも最も高名な楽団に入った。

クリスの音が手に入っていれば、私は彼をパートナーとして、より盤石な体制でプロの世界に望むこともできただろう。
リセルシアに取り入って、彼女をパートナーとしてチェザリーニ家の力を手に入れるというプランもあった。けれど、リセのフォルテールよりもクリスのフォルテールの方が、私の中では価値があった。たとえチェザリーニの後ろ盾を失ったとしても、手に入れるだけの理由があった。

彼の…フォルテールには、それだけの魅力があった。

けれど、そうならなかったのだから、そんなことを考えるのはもう意味がない。リセルシアに恩を売るという案も、クリスを選んだ時点で、捨てた選択肢だった。
私はプロになるために、今までずっと、あらゆる努力を惜しまなかった。だから、たった一つのことが思い通りにならなかっただけで、私の夢は潰えたりはしない。

 

開演のブザーが鳴る。

今日は、私のプロデビューの日であり。
楽団に入って初めてソロで歌う日でもあった。

伴奏は楽団員のピアノ。でもそれは関係ない、今日は私の歌が始めてプロとして評価されるべき日だった。

緞帳が上がり、静かに伴奏が流れ出す。
会場には卒業発表会にも匹敵する大勢の観客がいて
今、私はその舞台の主役としてそこにいた。

そして歌い始めた。

『ひとつの夢のため あきらめなきゃならないこと…』

今日、そしてその先の未来のために、私は今まで努力を惜しまなかった。
今日の歌だってそう、数え切れないほど練習をしてきた。

『居場所はどこだろう 私の役割はなに?』

もちろん歌の練習だけではない。それ以外のこと…人が知れば「酷い」と言うであろうことさえも。私は多くの人を利用し、その中で不用なものは切り捨ててきた。

『ずっとずっと思ってた そして みつけた気がしたの』

それが正しかったとは言わない。ただ私には夢があって、その夢のためには必要だった。それだけのこと。
そして…私はこれからもその生き方を変えることは無いと思う。だからこそ、これは当然の結果。更に上へいくための一つの過程に過ぎない。

『やがて 覚悟が芽ばえていた』

曲が前半のサビに入り。私は大きく息を吸い込む。
大勢の観客たちが私の目に映り、

『この夢のためならば 他を捨てて…」

――そして見てしまった。

(……クリス…?)

その瞬間。
歌が、消えていた。

――それはほんの一瞬、一秒にも満たない時間。

私はすぐに歌を再開する。

歌いながらもう一度目を凝らし、観客席を見つめると。そこにいたのは、ただのピオーヴァ学院の男子生徒だった。それも全く知らない人。
もちろん、クリスであるわけがなかった。

――見間違えた。それだけだった。


歌詞を一瞬忘れた、或いは噛んでしまった。それはプロの世界でも稀にあるミスであり、ほとんどの観客は気にも止めないか、すぐに忘れてしまうものだった。けれど、プロとして初めて舞台に立った私にとって、そのミスは…あまりにも大きかった。

曲が終わり舞台を降りる。
楽団の関係者は私の歌を褒めも貶しもしない。ただ幾人かの顔には、哀れみや労りの感情が現れていた。

プロであれば恥ずべきミス。初めての舞台で緊張してしまった、などと言い訳が通じるほど甘い世界ではない。私は一刻も早く、この場を立ち去りたかった。

会場を出る途中、廊下で一人の人物と会った。
廊下の脇に立ち私を見下ろすように彼は言った。

「ファルシータ。お前には期待していたのだがな…」

グラーヴェ。
音楽界に大きな影響力を持つ。
私を拾った…貴族。
そんな単語たちが、頭の中に浮かんでは消えていく。

「………申し訳ありません。もう二度とあのようなミスは…いたしません」
私はグラーヴェに頭を下げ、彼が立ち去るまでそのままでいた。

動揺していた。

どうしてあんなミスをしてしまったのだろうか
これからの自分を決める大事な演奏会で、あんな無様なミスを。
私はまだ彼のことを…

色々な考えが混濁していた。でも、

具合が悪かったことにしよう。真摯に謝れば、きっとまだやり直せるはず
次の機会に挽回するんだ。決意を表明して、悲壮な覚悟を見せて…

私はそれにどう対応するべきかも、既に頭の中で固まりつつあった。私はそんな自分に、ほんの僅かだけれど嫌悪感を覚えてしまった。
私は無意識に、胸のペンダントを握りしめていた。

コンサートホールを出ると、この季節には珍しく…雨が降っていた。


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