『片翼の翼』 #2


大した雨ではなかったから、私はしばらく雨の中で佇んでいた。少し頭を冷やした方がいい、とでも考えていたのかもしれない。
でも雨の中にいたせいか、私は自然と彼のことを思い出してしまっていた。

私のために練習室に足を運び、
フォルテールを奏でてくれた彼。

私の境遇を知り、真剣な顔で、
力になると言ってくれた彼。

語り合い、笑い合って、
一度は心が通じ合えたと思えた彼。

私の全てを明かして、それでも、
卒業演奏を共に奏でてくれた彼。

私に別れを告げる時でさえ…
私を労るような、憐れむような顔をしていた、

いつも止まない雨の中にいた
いつも少し悲しげで、優しかったクリスのことを

 

――いつのまにか、雨がやんでいた。

それが、私の上に差された傘のせいだと気づいたのは
ずいぶんと後のことだった。

雨はまだ降り続いている。

後ろを振り返る。
そこには一人の青年が傘を持って立っていた。
自らは雨に打たれているというのに、私の上にだけ傘をかざして。

「…どうして、あなたがここに?」
最初に口をついて出たのは、そんな言葉だった。

「久しぶり…ですね」
その青年はあまり感情を込めずに、そう言った。

「…答えになっていないわ」
私も同じように彼に返す。いや、彼よりもずっと、冷たい口調で。

――アーシノ。

私がクリスに近づくため、クリスに関する事を聞き出すためだけに、利用した人。そして、それが不要になった時、切り捨てた人。

ただ、それだけの人。

「俺がこんな所にいる理由ぐらい。ファルさんなら、すぐ分かると思うんですけどね」
「………」
「…そんな顔しないで下さいよ。俺はただ、歌を聴きに来ただけです。…プロになった、ファルさんのデビューコンサートを」

顔に少し笑みを作って、彼らしい軽い口調で話すアーシノ。

――くだらない。

「そう?それはよかったわね」
心底興味のなさそうな顔で、私は薄ら笑みを浮かべる。

「…それなら、満足したでしょう?デビューコンサートで無様に失敗した私を見られて」
「…っ…そんなことは…」

アーシノは悲しそうな顔をする。でも、すぐに真面目な顔に戻ると、こんなことを言いだした。

「…それより、どうしたんですか?」
「……いったい何の話?」
「あんなミス、いつものあなたらしくないですから」
「…」
「……クリスの…ことですか?」

彼がクリスの名を言った瞬間、私はアーシノを睨み付けていた。たぶん、今まで以上の、とんでもなく冷たい眼で。

「黙って」
そう言い放った。

――らしくない。

いくら相手が私の素顔を知っているアーシノであっても、だ。思った以上に私は感傷的になっているのかもしれない。冷静にならなくてはいけない。いつものように、仮面を被って。

「…まあ、こんな所で立ち話もなんですから…とりあえずトラットリアにでも行きませんか?」

アーシノはそんなことを口にした。

「…本気で言っているの?」

私は、彼にとって最悪の目的で彼を騙し。そして最低な方法で切り捨てた。
でもそれは、今の私にはもう関係のない話。それが悪かったとは微塵も思わなかったし。今も思っていない。最初から彼に対してあったのは、ほんの少しの侮蔑と憐みだけだった。

だけど、そんな彼が今更私にどんな話をするのか。
それが少しだけ気になった。

それが私に対しての非難や糾弾なのか、或いは未練がましく私の気を引こうとしているのか…どちらにせよ、私にとって滑稽な話をしてくれるのだろう。

「いいわ、そこまで言うのなら、少しだけ付き合ってあげる」

それは、ほんの気まぐれだった。
ただ彼と話し、或いは見下すことで、いつもの私を取り戻せればいい。
今の乱れた心を、元通りに戻せればいい。
そんなことを考えながら、私たちはトラットリアへ向かった。


 

コペルトの中は休日の昼ということもあり
それなりの人の入りだった。

そんな中で空いている席を探し、腰を下ろす。

「気を落とさないで下さい、ミスは誰にだってありますから」
二人とも軽い料理を注文し、少し落ち着いたところで
アーシノの口から出てきたのはそんな言葉だった。

「何それ?ふふ…」
私は思わず笑ってしまった。
それが予想していた以上に馬鹿馬鹿しい言葉だったからだ。

「おかしいですか?」
真面目な話を茶化されたかのように困ったような表情をするアーシノ

「そうね。ちゃんと皮肉や嫌味として、受け取ってあげるわ」

それがもし私のことを深く知らない、ただの知人の言葉だったなら。私はきっと笑顔で『ありがとう、でも心配しないで。私は大丈夫だから』と言うのだ。
気丈に振る舞い、尚且つ過ちの反省もして、努力家である優等生の顔を演じるのだろう…

「でもまさか、あなたにそんなことを言われるなんてね」
あからさまな笑顔を作ってアーシノに返す

「それって、どういう意味ですか?」
呆れたような笑顔を作るアーシノ。

こういう風にすぐに表情を変えられるところは、彼は私と似ているのかもしれない。もっとも、色々な表情を作れたところで、私と違って彼は使い方が余りに拙い。

…しょせん彼は、嘘もろくに吐き通すことができないほど、ささやかな凡人なのだ。

「ファルさんは知らないかもしれないですけど、俺だって一応、プロになったんですよ」
「そうなの?…知らなかった」

意外…だとは思った。
ただ特に興味のない話であることには変わらない。

「まあ、ファルさんが今いる所とは雲泥の差です。プロといっても小規模な所ですから」
「…卒業発表会の演奏、あの時俺は、仕方なしに知り合いの一年の男子生徒と組みました」
「短期間でろくな練習もできませんでした。正直、俺は卒業すらできるのか不安でしたよ」

淡々と自らのことを語るアーシノ。
ただ、その言葉の中に、私に対する嫌味や皮肉は感じ取れなかった。
それが、私には少し不思議だった。

「クリスとあなたのペアの評価が秀逸でしたから、地味で目立たなかったけれど…俺はその時に、今までで最高の演奏ができたんです。自分でも信じられないくらいに…」

「そうなの…それで…?」

あからさまに興味の無い口ぶりではあったけれど、
私はつい、その話の続きを聞いてしまっていた。

「…上出来との評価をもらえましたよ。そして、今の楽団からの誘いも来たんです」

アーシノがそこまで話し終えたとき、ちょうどテーブルの上に料理が運ばれてきた。


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