料理を口に運びながら、アーシノの顔を見る。
明るい表情をしていた。
まるで、私に捨てられる前の彼がいつもそうであったように。
しばしの沈黙が続く。
その沈黙を破ったのは。他でもない私自身だった。
「それなら、あなたがプロになれたのは私のおかげかもしれないわね」
「……」
「だって、言うでしょう?フォルテールは『人の思いや感情に左右されやすい』って」
「そう…ですね」
そう言うとアーシノは手を止め、私の目を見つめてきた。少しだけ優しい表情で。
恩を売るつもりなんてもちろん無い。
ただ、私は少しだけ知りたいと思った。
それはほんの些細な思いつきの様なものだったけれど。
彼が、あの出来事をきれいに忘れられるほど、無神経な愚か者なのか。
感情を抑えているだけで、心では私に対する憎悪を持っているのか。
――或いは、最初から私の事をそれほど気にかけてはいなかったのか。
いや…三番目はありえないだろう。
私は、彼が私に好意を持っていたことを知っている。
クリスについての情報を聞き出すために、彼に近づいた時から、そんなに長い付き合いではなかったけれど、アーシノは私に愛の告白めいた詩まで作って、それを捧げた程だったのだから。
「正直俺も、プロの楽団に入れるなんて思っていなかったんですよ」
私が彼に、ある問いかけをしようと思った直前に、彼はそんなことを口にした。
「俺のフォルテールの腕が平凡以下だってことなんて、俺が一番分かっていましたから」
「なんとか卒業できたら、コーデル先生の下にでも付いてフォルテール科の助講師でもやろうと、そう漠然と思っていました」
「でも、卒業発表の後。先生に演奏を褒められて、その後に今の楽団からの誘いも来て…トントン拍子で話が進んで、俺も今やプロの音楽家の一人ですよ」
アーシノは少し自嘲ぎみに言葉を続けていたが、改めて私の目をまっすぐに見て言った。
「ファルさん、俺、ずっと考えていたんですよ」
「あの時…卒業発表の前日の夜に、俺を部屋に呼び出した理由を」
「大切な発表の前日に、ファルさんが何であんなことをしたのか、あの時の俺には分からなかった。でも、今なら分かります」
「………」
私は言葉を挟まず、彼の話を聞き続けたけれど、
「ファルさんは…クリスのことが本当に、好きだったんですね」
それを聞いて一瞬、私は歯軋りをした。
でもすぐに笑みを浮かべて返す。
目の前のアーシノにだけに聞こえるような小さな声で
「…そうよ。あの時もそう言ったじゃない?覚えていないの?」
「私はクリスさんのことが好きで、あなたはクリスさんに近付くために、利用していただけ。そう言ったでしょう?」
アーシノはそれを聞いて悲痛な顔をしたが、またすぐに優しい顔に戻った。
「あんなことをしなくても、クリスはファルさんのことを愛していたと思いますよ」
「いや、あんなことをしなければ…今もファルさんの隣に、いたと思います」
「あなたに何が分かるの?」
冷たい言葉。
それ以上言うならば、もうこんな茶番に付き合う必要もないと、そう思った。
「俺に分かるのは、少しだけです。でも、ファルさん…」
「卒業発表の前日なんていう、そんな大事な時期に…それでもあなたは」
「あなたは自分の全てをさらけ出して、それでも、クリスに、好きになって…」
「もう、いいわ」
私はアーシノの言葉を遮るように言い捨てた。
アーシノの目的がこれで分かった。
私にクリスの話をすることによって、私への復讐を果たそうとしているのだ。クリスを手に入れられなかった私を、今でも彼を忘れられずにいる私を、笑いに来たのだろう。
でも、それさえも予想していたことの一つだった。
だから何も動じることはない。
それが分かった私は、もうここにいる意味を持っていなかった。満足げな笑みを浮かべ、すぐにでも立ち去るつもりだった。
けれど、その次に出てきた彼の言葉は、
私の予想していたようなものではなかった。
「ファルさん、…もう一度だけ。俺と一緒に…いや」
「俺の演奏を、聞いてくれませんか?」
アーシノは思い詰めたような顔で私を見つめている。
「俺は、ファルさんの力になりたいと思っていました。今でも、それは変わらないんです…」
「…俺にそんな力なんてないのは分かっています、でも最後に一度だけ、友人としての願いを…聞いてほしいんだ」
「………」
アーシノは何を言っているのだろうか?
私にフォルテールを聞いて欲しい?
私の力になりたい?
――笑わせないで。
私はそんな彼の言葉がおかしくてたまらなかった。
この期に及んでアーシノは、私と寄りを戻せると思っているのだろうか。
「ふふふ…あは、あははッ…!」
声を出して笑った。
それはあまりに馬鹿馬鹿しくて、愚かな願いだったから。
私は深い溜息をついた。
「いいわ、あなたのために、もう一度はっきり言ってあげる」
いくら彼が愚か者であろうと、これで今度こそ解るだろう。
「私はあなたのことを、愛してなんかいないわ。…これっぽっちもね」
「あなたのフォルテールでは、私の力にはなれない」
淡々とした事実を、私は彼にはっきりと告げた。
「……そうか」
それを聞いたアーシノは、しばらくのあいだ口をつぐんだ。
「まあ、これで俺の話は終わりです。ごめんな…下らない話に付き合わせて」
そして、いつものように笑顔に戻ると、軽い口調でそう言った。
「…」
バカね、それで笑顔を作っているつもり?
鏡があるなら、自分の顔を見てごらんなさい。
涙を拭くこともしないで、それで平然を装ってるつもり…?
でもその時に、私はあることを思ってしまった。
もしかしたら私も、同じだったのかもしれないと。
卒業発表後に、クリスと最後に別れた時
デビューコンサートでクリスの姿を見間違えた時。
今日あの場所で、クリスのこと思い出していた時。
私はちゃんとした笑顔を作れていただろうか?
いや、作れていたはずだ。
少なくとも、こんな分かりやすく涙を流していたはずがない。
そう、信じたかったけれど。
長い沈黙の後、私は席を立った。
そして…。
「学院に行きましょう」
「この時期なら練習室も空いていると思うわ」
「…いいんですか?」
アーシノは驚いた顔をして私を見ている。
驚いているのは、私も同じだったけれど。
「あなたがフォルテールを聞いて欲しいって言ったんじゃない」
「友人としてね…今日だけはあなたに付き合ってあげる」
どうしてそんな風に思えたのか、どうしてそんなことを言ったのか。
それは無意味な時間。私にとって無価値な時間にしかならないと分かっていた。
分かっていたのに、そう答えてしまっていた。
――ただ、なんとなくこのまま彼と別れて
――ひとりになるのが、嫌だった。
私はアーシノを連れて学院に向かった。
雨はまだ、静かに降り続いていた。