『妖精の歌う夜想曲』 #2


――眠れない。

ベッドに入って目を瞑ったものの、
私はなかなか眠れなかった。
胸の鼓動が収まらず、毛布の中で小さく身を縮めても、心がざわついて仕方なかった。

何も急ぐ必要はないって分かってる。
今はもう、クリスの想いを疑うことはない。
だけどほんの少し…
ほんの少しだけ、切ない気持ちになってしまった。

隣のベッドで眠るクリスの寝息が聞こえてくる。

クリスの方を見ると、彼はもう熟睡しているようだった。
静かで穏やかで、子供の頃と同じような無垢な顔で眠っているクリス。

私は毛布をそっとめくり、静かに起き上がった。
ベッドの端に腰を掛け、クリスの寝顔を見つめる。
手を伸ばせば届くほどの距離。
暗闇の中、月明かりが彼の顔の輪郭を柔らかく照らし出していた。
 

(ピオーヴァにいた頃も、こうやってクリスの寝顔をよく見ていたっけ)

フォーニだった頃、私は眠ることができなかった。

妖精の体では、意識を薄くして姿を消すことで、
眠りに近い状態になることはできたけれど。
夢を見るような深い眠りは得られなかった。

それも当然だ。だってその時…私の体は、この故郷の街で眠り続けていたのだから。

 『妖精と言う存在は、誰かが知覚したからこそ存在し、その意味を持つ』

いつか読んだ本に、そんなことが書かれていたのを思い出す。

あの時、私は妖精の体を得て、美しい歌声も手に入れたけれど、
それでも誰からも知覚されなかったとしたら、
その姿も歌声も、何の意味も持たなかっただろう。
誰にも干渉できず、ただ眺めていることしかできなかったのなら、
私はきっと、そんな妖精の姿さえ保つことができず、
とっくに消えてなくなっていたと思う。

私が妖精として、
フォーニとして在り続けられたのは。
クリスが卒業するまでの間、
その命を繋ぐことができたのは。
3年間ずっと私のそばで話し相手になってくれた
クリスがいたからだと、
今ならそう思える。

(クリスがいたから、私は私でいられたんだよ…)

ただクリスの側にいたい。見守っていたいという一心でクリスの部屋まで着いてきたけれど、それから私が『音の妖精フォーニ』という存在になったのは、その意味を与えてくれたクリスがいたからだと思う。


 

暗い部屋の中、時計の音だけが静かに聞こえていた。
目を閉じて、私は思いにふける。

音の妖精フォーニとして在り続けた日々。
クリスと共に過ごした三年近くの時間は、
とても大切で、幸せな時間だったけれど。

あの雨の降る街で、もしクリスが、
フォーニが私だと気づかなかったなら。
もしクリスが、ピオーヴァで出会った誰か…
彼が言っていたリセさんやファルシータさんと親しくなり、卒業演奏のパートナーとして彼女たちを選んでいたなら。
 
もし…クリスが、トルティニタを選んでいたのなら。
私はどうしていただろう?
 
クリスが自分のしたいことを見つけ、私以外の…側にいたい人を見つけられたなら。きっと私は、それを受け入れたと思う。
私はあの部屋で、フォーニとしてクリスに簡潔な別れを告げて、
永遠に消えていなくなっていたと思う。
 
そして私の体も、故郷の街で眠り続けたまま、
目を覚ますことなく
静かに命を終えていた。
クリスがトルタを選び、二人が故郷に帰ってきた後
土の下で眠る私のために、クリスは鎮魂歌を奏でてくれたはずだ。
 
かつての私が、そう望んでいたように。
側で寄り添うトルタと共に、
私の魂の安らぎを祈って。
 
――その想像は…あまりにも鮮明で、私は無意識に胸を抑えていた。
 
再び目を開け、眠るクリスを見つめる。
 

もし、クリスが私のことを思い出さなかったなら、
フォーニという妖精は、クリスの思い出の中にしか残らなかったはずだ。
まるで、存在そのものが夢や幻だったかのように。

(でも…わかってるよ。今のこの時間は、本当に夢のようだけど…)

それでも、これは夢じゃない。
それだけは確かなことだって知ってるから。

 

奇跡なら、一番最初に起こっていた。
事故で意識を失ったはずの私が、妖精の姿を象り彼の側にいられたこと。
そして彼だけが、私の存在に気づいてくれたこと。

クリスと共に暮らし、共に歌うことができる。
フォーニという存在で彼の側にいられたこと自体が、
私にとっては、これ以上ないほどの奇跡だった。
だから、それ以上を求めてはいけないと、ずっと思っていた。

それでもクリスは、私を求めてくれた。
故郷の街にいるはずの、トルタの作り出した、幻想の私じゃなく
眠り続けていた…本当の私を、思い出してくれた。

そして、誰よりも…トルタよりも、
私を、必要としてくれた。

クリスが思い出してくれた時、
私は泣きたくなるくらいに嬉しかった。
そして同時に思ったんだ。私を選んでくれたクリスのために、できる限りのことをしたいって。

その時の私は、こうして目を覚まして、またアリエッタとして生きられるとは思っていなかった。卒業演奏を終えてクリスと共にこの故郷への帰路につく時も、その先どうなるかなんて分からなかった。

列車の中、フォーニとして初めての眠気に襲われた時、私はここで消えるのかもしれないと思った。でもクリスはそんな私を手のひらに乗せて、優しく包みこんでくれた。

クリスの手の暖かさは、今でも鮮明に覚えている。
私の体が冷えて、風邪を引かないように。

雨に濡れないように、私の体をかばってくれた。
あの…事故に遭った時と、同じように。


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