『妖精の歌う夜想曲』 #4


朝日がカーテンの隙間から差し込み、寝室に淡い光を投げかけていた。

私は目を覚まし、隣で眠るクリスの顔を見つめる。
静かな寝息と、柔らかな髪が額に落ちる様子が目に入る。
昨夜の温もりがまだそばに残り、胸がじんわり温かい。

ベッドから起き上がり、キッチンへ向かう。
オーブンでパンを焼きながら、サラダの用意をした。

朝食の用意がほぼ終わり、クリスがまだ起きてこないので、私は寝室へ向かう。

「クリス、起きて。もう朝だよ」

そう声をかけても、彼は目を覚まさない。
ピオーヴァにいた頃も、日曜日は遅くまで寝ていることが多かったっけ。
そんなことを思い出しながら、私は声を大きくした。
 
「ほらクリス!起きて。朝ごはん、もうできてるよ!」
「う、う~ん…」
 

クリスの瞼がゆっくり開き、眠たそうな目が私を捉える。

「ああ…おはよう、アル。もう起きてたんだ?」
「おはようクリス。もう8時よ?早く起きて朝ごはん食べよう」

彼は軽く伸びをして微笑む。

「今のアル、なんだかフォーニみたいだ」
「もう、何言ってるのよ…今日から私がご飯を作るんだから、朝はしっかり起きて食べないとダメよ?」
「ピオーヴァでも、クリスってそういう所だらしなかったよね」

窓の外では鳥がさえずり、春の風が木々を揺らしている。
クリスは少し眠そうにしながら昔を懐かしむような顔を見せたが、やがてベッドから起き上がり、朝食の待つテーブルへ向かった。


 

「このパン美味しいね。今朝焼いてくれたの?」
「うん、そうだよ。生地は昨日の夜に用意しておいたから」

クリスが頷きながらお茶を手に持つ。ふと窓の外を見ると、陽光が庭の草花を照らし、部屋に柔らかな光が差し込んでいた。

「今日はいい天気ね」
「そうだね、後で外に出てのんびりしようか」

朝食を食べ終え、後片付けも済ませた後、
私たちは家の外にある庭へ向かう。
外に出ると、風が頬を撫で、草の香りがふわりと漂う。

小さなテーブルに椅子を並べ、私たちは並んで座る。
町外れにあるこの家は少し古さが目立つところもあるけれど、他の家から離れていて、広めの庭も付いていたのが、私たちがここを選んだ理由だった
 
この家を見つけた時、最初に目に入ったのがこの庭だった。
町外れの静かな、喧騒から離れたこの場所が、私たちに新しい始まりを約束してくれる気がした。

でも、本当の理由はもっと先にあった。

近い将来、この家で音楽教室を開く――それが今の私たちの夢だった。
広い庭で子供たちが歌い、家の中から楽器の音が響き合う。そんな未来を想像した瞬間、ここしかないと思った。

クリスは庭の端に目をやり、木々の間に隠れる小さな物置に視線を移す。そこには、いつか楽器を置くためのスペースができるだろう。家の裏手には大きな扉もあり、オルガンやピアノだって運び込めそうだった。

クリスがフォルテールを奏でる姿が頭に浮かぶ。
笑顔で音楽を教えるクリスと生徒たちの音色が、この庭に響き合う日が来る。
そしてその時には…。

「クリス、この家でいつか、音楽教室を開いたら」
私は言葉を切り、彼の顔を見る。彼は少し首をかしげて、私の続きを待つ。

「私に最初に、歌を教えてね?」
クリスが目を丸くして、それからゆっくり頷く。
 
「そうだね。アリエッタが僕の音楽学校の、最初の生徒になるだろうね」

彼の声に確信が混じるのを聞いて、私は微笑んだ。
ピオーヴァでの三年間、私はフォーニとして彼のフォルテールに合わせて歌を歌っていた。でも、アリエッタとして目覚めた私の歌は、フォーニだった頃とはまるで違って、今も下手なままだ。

音程は外れ、リズムもつかめない。どうしてフォーニのように歌えないんだろうと、残念に思う気持ちもある。
 
――だけど。
 
クリスが立ち上がり、庭の中央に歩み寄る。
風が髪を揺らし、日差しがその背中を照らしていた。
彼が振り返り手を差し出す。私も立ち上がり、彼の手を取った。

――だけどそれでも、クリスがいるから
――どれだけ下手でも、今の私は歌うことが楽しいと思えた。

「早く始めたいね」

クリスが呟く。
私は彼の手を握り返し、頷いた。
 
「うん、そうだね」
 
風が木々を揺らし、遠くで鳥がさえずっている。
クリスの腕が私の体を優しく抱き、私もクリスを抱きしめた。
どちらからともなく唇を重ね、長いキスを交わす。
 
キスが終わり、クリスが言う。
 
「フォルテールを持ってくるよ、そしたら、一緒にアンサンブルをしようか」
 
「…うん!」
 
私は満面の笑顔で、そう答えた。
 

 
 『お願いはひとつ 力になりたい…』
 
クリスがフォルテールを取りに行っている間、
私は小声で少し発生練習をする。

フォーニのように上手には歌えないけれど
クリスが私のために作ってくれた大切な曲。
そして、この曲の歌詞を書いたのは私だった。

だけど、私の今の願いは…夢は、
もう、ひとつではなかった。
 
この家で、この街で、私たちは生きていく。
音楽を学ぶ子どもたちと一緒に、私も歌を歌うんだ。
そして、昨日は踏み出せなかった一步を、踏み出すことができたなら…
その輪の中に、もうひとりの小さな歌い手が加わっているかもしれない。
 
そんな幸せな未来を想像しながら、
私は晴れ渡る空を見上げた。
 
どうか、この愛おしい日々が
いつまでも続きますようにと、願いを込めて。

 

 


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