『Non detto』 #3


「たくさん修行して、将来はパン屋を開きたいんだ」

姉さんは目を輝かせてそう言った。
それは、姉さんの子供の頃からの夢だった。
あの事故がなければ、もう地元のパン屋で一人前の職人として、独り立ちを視野に入れていてもおかしくなかっただろう。

止まってしまった三年間を一日でも早く取り戻したい。そんな力強い決意が、姉さんの言葉から伝わってきた。

「僕も講師の仕事だけじゃなく、郵便局の配達員のアルバイトも始めたんだ。今はとにかく、お金を貯めたいから」

クリスが仕事を頑張る理由は、できるだけ早くアルと一緒に暮らせる家を買うため。二人の結婚はもう時間の問題だということは、お互いの両親も、そして私も…充分に理解していた。
もう二度と離れない――その決意は、リハビリ中の二人の姿を見ているだけで伝わってきた。

「それと、これはまだアルにも話してなかったんだけど…もしかしたら安く譲ってもらえるかもしれない物件の話があってさ」
「アルが気に入ってくれるかどうかは分からないけど…」

一瞬だけ考え込むような仕草をしたクリスに、姉さんは静かに尋ねた。

「クリスはどう思っているの?」
「うん。悪くない話だと思ってる…ただ」
「ただ…?」
「いや…その話はまた今度にしよう。僕たちの将来にも関わる話だから」

不思議そうに尋ねる姉さんに、クリスは微笑みながらそう返した。

「僕たちのことばかり話しちゃったけど、トルタはどうするの?」

クリスにそう尋ねられて、私は一瞬言葉に詰まってしまった。

「…まだ、はっきり決められてはいない…かな?」
「ピオーヴァで歌の仕事をしないかって誘いは受けているんだけど…」

二人から少し目線をそらし、広場から見える故郷の街を眺める。

ピオーヴァに戻るという選択は確かに現実的だった。でも、あの街にはクリスとの思い出や私の過去の罪が、まだ残っているようで…だからか、どうにも気持ちが乗らなかった。

講師の仕事や音楽学院時代の伝手で得た仕事もあり、この町で暮らしていくというのも、一つの選択肢だった。ついこの間、街に住む貴族の子弟の個人レッスンをして欲しいという依頼もあった。

「…家庭教師の仕事の依頼があって、とりあえずはそれを受けようかなって」

本当は、ピオーヴァに戻るべきか、この町に残るべきか――その答えを、まだ出せなかった。だから私は、目の前にある一番小さな選択だけを口にした。

「いいと思うよ。トルタなら、きっといい先生になれる」
「…ほんとにそう思ってる?」
「もちろん」
「がんばってね、トルタ。私も応援してるから」

クリスもアルも、そんな私の答えを受け入れて応援してくれた。

でも私の答えは、私が見えているものは、二人とは違う。
二人は自分の未来を見つめている。その視線の先には、互いの姿がはっきり映っているはずだ。

けれど私の目の前には、まだ霞がかかった景色しかなかった。
その霞が晴れる時が来るのかどうか、
今の私には、まだ分からなかった。


 

そんな私とは裏腹に、クリスとアルの時間は一気に動き出していった。

それから二人とも、少し心配になるくらい精力的に仕事に励んでいった。
アルは体力の回復と共にパン屋で働く時間を少しずつ延ばしていき、クリスは早朝や夜のアルバイトも入れ、朝から晩まで汗を流した。

そして年が明けて少し経った頃。
二人から、結婚するという報告を受けた。


 

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