街の空気は、次第に冬の色を濃くしていた。
吐く息が白く染まるほど、外の空気は冷たかった。屋根の上にはうっすらと霜が降り、風に混じって舞う小さな雪片が、行き交う人々の足をいつもより早めていた。
お腹がすっかり大きくなり、クリスがそばに付き添うことも多くなった姉さんは、それでもパン屋の仕事を続けていた。
そんな二人の姿を横目に、私は少しずつ荷物をまとめていった。
大きめのキャリーバッグには、季節ごとの着替えを詰め込んだ。使い慣れた楽譜ファイルと数冊の本、ノートに筆記用具、それから小さなリュックと水筒。そして、最近になってようやく手に入れた、小さなトラベルギター。
音楽院時代にほんの少し触れただけだけど、旅の中で弾けるようになるくらいには、練習するつもりだ。
「あとは…」
ふと机の隅を見ると、姉さんの結婚式の記念に作った、小さなオルゴールが置かれていた。中には三人で撮った写真が飾られている。でも、結婚式以来、これを開いたことは一度もなかった。
私は少し躊躇したが、バッグには入れずに机に戻す。
午後、私は一人、自分の部屋の窓辺に座っていた。
空はどんよりと曇り、雪が舞い始めている。
風に流される雪片は、窓ガラスに当たってゆっくりと溶け、跡形もなく消えていった。
旅立ちの準備は進めている。
でも、それがいつになるのかは、まだ決めていない。
行き先だって、はっきりとは見えていなかった。
できるだけ遠くへ――ただ漠然と、そう思っているだけだった。
私は、この街を出ていく理由を自分に問い続けた。
姉さんとクリスの幸せを壊さないため。
私の恋心という罪を、これ以上重ねないため。
その答えは、確かに胸の奥にあるはずだった。
それなのに、私はまだ踏み出せずにいる。
これは、本当に正しい選択なのだろうか?
一年半ほどの講師や家庭教師の仕事で貯めたお金も、十分とは言えないだろう。
でも、何よりも……私がここを離れれば、姉さんやクリスは悲しむ。
きっと、自分たちのせいだとさえ思ってしまうだろう。
それが分かっているから――この街を離れることを、まだ二人に打ち明けられずにいた。
ある日の仕事終わり、パン屋から漂う香ばしい匂いに誘われて中を覗くと、姉さんは大きなお腹を抱えながら、相変わらず粉まみれでパンをこねていた。
「アル…そんなに動いて大丈夫なの?」
「大丈夫よ。体を動かしてた方が落ち着くの」
そう言って笑う顔は、疲れを隠しているようで、けれどどこか幸せそうでもあった。
私は呆れ半分に首を振りながら、何気なく問いかける。
「でも、どうしてそこまでパンにこだわるの?少しくらい休んでもいいのに」
アルは手を止め、掌に残った粉を払うように小さく息をついた。
「昔はね…私にはこれしかないって思ってたの。音楽ができるトルタやクリスを見て、私にもできることを必死に探してた。」
「でも、今は違う…クリスやお客さんが喜んでくれるから、パンを焼きたいの。私が作ったものを食べて、笑顔になってくれるのが、嬉しいから…」
彼女の瞳は柔らかく、かつて自分に自信がなかった頃の面影はもうなかった。
私は頷きながらも、胸の奥で小さな疑問を覚えた。
――姉さんは、喜んでもらうためにパンを焼いている。
私はどうだろう?私が歌う理由って…なんなんだろう。
そんな折、街はナターレを前にして、教会の鐘もいつもより響きが華やかだった。買い物客で賑わう通りを歩いていた時、顔馴染みの神父様に呼び止められる。
「トルティニタ、お願いがあるのだが…ナターレの礼拝後に、教会で歌を歌ってくれないか?」
「小さな教会だが…歌がないのはやはり寂しくてね」
事情を聞けば、来てくれるはずだった歌手が体調を崩し、代わりを探しているという。私は少し迷ったが、結局それを引き受けることにした。
ナターレの夜、礼拝が終わった後の教会で、街の人々が木の椅子に座り、私を見つめていた。白い吐息が漏れるほど冷え込んでいるのに、その瞳は澄みきっていて、期待に揺れている。
私は深く息を吸い、歌い始めた。
最初は控えめな旋律。けれど声が石造りの天井に届くにつれ、音は丸みを帯び、柔らかく広がっていく。人々の表情が次第に和らぎ、静かに目を閉じているのが見えた。
二番に入ると、隣の席に座っていた老夫婦が、微笑み合いながらリズムに合わせて小さく手を打った。その拍手に導かれるように、私の声はさらに伸びやかになっていった。
歌い終わると、一瞬の静寂のあと、大きな拍手が教会を満たした。
人々の笑顔が、私に向けられる。
その光景を前に、胸の奥にふわりと温かさが広がっていった。
――ああ、私はやっぱり、歌が好きだ。
大好きな歌を歌って、その歌で誰かを笑顔にできるなら、それ以上の理由なんて、必要ないんじゃないか。
そう思った時、漠然としていた「旅立ち」の理由が、輪郭を持った気がした。
ただ、教会のミサに両親やクリスたちが来ていなかったのが、少しだけ気にかかった。