『peccato』 #1


人は誰でも、生まれながらに罪を背負うという。
だからこそ、人々は神に祈るのだと。

許し という救いを求めて。


病室の椅子に腰掛け、僕はフォルテールを弾いていた。毎朝の習慣となったこの時間。新しい日の訪れから始まる、僕たちの大切な時間。

ベッドから少し身を起こして、アリエッタは静かに僕の演奏を聴いていた。

僕がアルの元へ戻ってから、アルが眼を覚ましてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。アルの体は少しずつ、でも確実に回復に向かっている。

あの時。
アルが眼を覚まし、かすれた声で僕の名前を呼んだ時。僕は言いようのないほどの幸福感に包まれた。

僕がいて、アルがいる。
それだけで、世界の全てが満たされるような……
そんな思いを確かに感じることができた。

でもそんな幸福感も、これからのことを現実的に考えていかなければならないと思った時から次第に薄れていき。僕たちの未来には、まだまだ解決しなければならない問題が、山ほどあるんだということを、理解した。

ただ一つ……変わらないと断言できることといえば

たとえこの先どんなことがあったとしても
僕はアルの傍にあり続ける
と、いうことだけだった。

僕は演奏の手を止めアルの顔を見る。

アルはしばらくの間、余韻に浸るように目を瞑り。
そしてゆっくりとその目を開いた。

「……やっぱりきれいだね。クリスの演奏は」
率直に、何よりも心に響く言葉で僕の演奏を褒めてくれるアル。

「これでも3年間、それなりに練習してきたからね」
だから僕も素直にその言葉を伝える。

「そうだね、ピオーヴァにいた三年間。クリスはずっと頑張ってきたもんね」
「…ずっと、と言えるかは分からないよ。僕がフォルテールの練習を結構サボっていたこと、アルなら知ってるでしょ?」
「ふふ……そうかもね。日曜日なんて私とのアンサンブルの時間以外、ほとんど練習とか、していなかったもんね」
ピオーヴァにいた時のことを思い返し、アルは少し笑いながらそう言った。

「それでも……やっぱりクリスはすごいよ」
「私、やっぱりクリスのフォルテールの音が一番好き」
そういって微笑んだアルの顔に。僕はあの音の妖精の姿を重ね合わせることができた。

午後になれば、いつものようにアルのリハビリが始まる。

まだ自分の足で立って歩くことができないアルは
二本の大きな杖を支えに使って、一歩ずつ、一歩ずつ。
少しでも長い距離を歩く練習を始めていた。

『自分の体が思うように動かない』という感覚を僕はよく知らない。
けれど、リハビリ中のアルの顔から滲み出る汗を見れば、それがどれほど大変なのかを、少しでも知ることができた。

僕は、そんなアルの傍に立って応援することくらいしかできなかった。
アルが力尽きて倒れそうになった時に、とっさに肩を抱くくらいのことしかできなかった。
でも、そんな僕にアルはいつも「ありがとう」と言って微笑んでくれた。

そう、今までも。いつだって。
その微笑みが、僕を支えてくれていた。


フォーニ。

ピオーヴァの街で出会った、小さな音の妖精。
フォーニはいつでも僕の傍にいて、時に騒がしく、時に静かに僕を見守ってくれていた。
何よりも歌を歌うことが好きで、僕が望めばいつだって、微笑みをくれた。
そんなフォーニが、雨の幻を見ていた僕の、どれほどの心の支えになっていたか。

ピオーヴァにいた三年間。僕は、自分が考えていたよりも、遥かに大きなものに見守られ、支えられていたのかもしれない。

アリエッタ。

僕の幼馴染であり、恋人であり、
いつも、誰よりも近くにいてくれた最愛の人に。

それに比べて、僕はアルに何かをしてあげることが、できていたのだろうか。

「……クリス?」

心が、現実に引き戻される。
そこにいたのは、ベッドの上で心配そうに僕を見つめるアリエッタだった。

「……クリス、どうしたの?何か…考えごと?」
「……え…?」

「…なんだか深刻そうな顔してたから、どうしたのかなって」
「…」

僕は俯いて、また少し黙りこんでから、アルに言葉を伝えた。

「ごめんねアル、少しだけ、ピオーヴァにいた時のことを思い出していたんだ」
「僕はアリエッタに、何かをしてあげることができたのかなって」

「…ごめん…アル」
「クリス…」

「僕はずっとアルに、何もしてあげられなかったと思う。アルはずっと僕のことを、見守ってくれていたのに…」

僕はアルに、謝罪した。

3年間ずっと傍にいてくれた、フォーニの姿を思い出しながら。長い間、本当のアリエッタを思い出すことができなかった罪悪感から逃れるように、俯いたまま。

「クリス……違うよ。クリスは、何も悪くないよ」
アリエッタは僕に手を伸ばすと、その手に両手を添えた。

「謝らないで……大丈夫だから」
そしてそっと僕の手を包み込み。愛おしむように頬に寄せた。

「…私ね、フォーニとしてクリスの傍にいた時も、幸せだったんだよ?」
「いつもクリスの傍にいられて、クリスと話すことができて…」
「一緒に歌も歌えて。その時間は…本当に大切で、幸せだったの」

アルの告白。フォーニであった頃のことを幸せだというアルの言葉には、嘘は感じられなかった。だけど、

「…ごめん」

たとえそれが本当だったとしても、その時の僕は、アルに謝らなければいけないと思った。

「謝らないで……って言ってるのに」
「それでも、クリスは謝ろうとするんだね?」
つぶやくように、ささやくように、アルはゆっくりと言葉を続けた。

「それなら……」
「私のこんな言葉でも、もしもクリスが少しでも楽になってくれるなら……」
泣きそうになっていた僕の手を握りしめ、彼女は笑う。

「……クリス。私は全部、許すから……」
「大丈夫。クリスの全部を、私は許すから……」

優しく 暖かく 今の僕が最もほしかった言葉を……アルはくれた。
その言葉はまるで、春の雪が大地に溶け込むように……
僕の心の奥底まで 染み渡っていくように感じた。

アルの温もりに包まれて、ゆっくりと顔を上げる。

微笑むアルの姿に僕は一瞬、いつか読んだ聖書の中に出てくる、マリア様の姿を感じてしまうほどだった。


 

時間はもう、20時を回ろうとしていた。
窓の外には夜の帳が下り、いつの間にか振り出した小雨が、僅かな水の音色を奏でていた。

あれからしばらくの間、アルは何かを考えるようにぼんやりと外を眺めていた。

僕もそれにつられるように、雨の空に僅かな思い出を浮かべていた。

「……クリス。お願いがあるんだけど……いいかな?」

ふいに、アルがそう呟いた。

アリエッタの願い。そんな言葉を聴いたのはアルがフォーニであった時以来だろうか。目を覚ましてからのアルは、一度も僕に何かをお願いするような言葉を使うことはなかったと思う。
もちろん日常の些細な会話の中に、そう呼べるものもあったけれど、少なくとも「お願い」という言葉を前置きして使ったのはこれが初めてだった。

「……うん。なにかな? 僕にできることなら、なんでもするよ」
だから、例えそれがどんなものであっても。
アルがその言葉を選んだ以上、僕はできる限りそれを叶えてあげたい。
そう、強く思った。

「トルタのこと……」
アルは少し目を伏せ、双子の妹の名を呼んだ。

「……トルタは、いつも私たちのために気丈に振舞っているけど……でも、本当は…本当はトルタは。そんなに強く、ない子なんだよ」

「私には……分からなかったから。あの三年間の、トルタの気持ちを想像することしかできないけど」

……悲痛な顔だった。自らの右手で左手を握り締めながら、アルはその言葉を続けた。

「……辛かったんだと思う。…きっと、悲しかったんだと思う」
「それなのに、トルタは……1人でずっとそれに耐えていた」

「……」
僕はそんなアリエッタの顔に、今度はトルティニタの面影を映していた。

そう、あの三年間。
降り続ける雨の中にいたのは、僕だけじゃない。

少なくとも。僕にはフォーニがいた。
フォーニがいたからこそ、僕は孤独を感じることもなかったし。学院に行けば、会いたいと思えばいつだってトルタに会うこともできた。

トルタは学院で、いつも僕に寄り添ってくれていた。
学院で一緒に昼食を取る時間、他愛のない会話の中で。
アーシノ以外にろくな友人も作れなかった僕にとって、気心の知れた幼馴染として気楽に話せる彼女の存在は、思った以上に僕の支えになっていたのだと思う。

ただ、何も知らずに。

けれど、トルタは…本当の意味では、ずっと1人だったのかもしれない。

「トルタは優しい子だから…辛いことも、悲しいことも全部。一人で何でも背負おうとする子だから…」

「私は、何もできなかった。今だって…私にできることなんて、本当に少なくて……」
「だから…お願いクリス」

「トルタに…トルタのために、できることがあるなら…力になってあげて欲しいの…」

クリスにしかできないことが、きっとあるはずだから、と。

 

3年間、アルとして僕に手紙を書き続けていたトルタ。
アルのふりをして、僕とナターレを共にしたトルタ。
事故のことを忘れてしまった僕に、3年間ずっとそれを隠し続けていたトルタ。

トルタは何も言わないけれど、それが僕のためを思ってのことだってことは、今ならわかる。

もしも僕の両親やトルタが、その決断をしなかったとしたら。
トルタが作り出した嘘に騙され続けていなかったら。
…少なくとも、今の僕とアルは、ここにいなかっただろうから。

トルタのために、僕はなにができるんだろう?
その答えは、まだはっきりとはしていなかったけれど

「……うん。分かった」
僕は、アルにそう答えた。


next>