『peccato』 #2


「アリエッタ」
僕はアルの名前を呼び、そして続けた。

「トルティニタに対して、僕ができることが何なのか…まだはっきりとは分からないけど」
「それでも、できる限りのことはしていこうと思う」

「それと、アルにも」
「僕はアルの為にも、できることをしてあげたいと思うんだ」
「クリス……」

「…アル、何でもいいから言ってほしい。して欲しいことや…したいことがあるなら」
「思っていることがあるなら、全部僕に話してほしい」

僕は笑顔を作ってそれを伝え、彼女の返事を待った。
アルはそんな僕の言葉に何かを考えこむように俯いた。

 

「………クリス」

想像していたより、はるかに長い沈黙の後に、アルが僕の名を呼ぶ。

それは、酷く弱々しく小さな声だった。

「それなら私、クリスに言わないといけないことがあるの」

アルの瞳は髪に隠れ、僅かにしか窺うことができない。僕は椅子をベッドの傍に寄せ、アルの顔を覗き込んだ。

「……ごめんなさい」
そう、アルは言った。

「そう、私が悪いんだよね、…私のせいで、2人を傷つけてしまった」
涙こそ見せないものの、その表情からは悲痛な思いがにじみ出ていた。

「私が事故にあってしまったせいで、私が眠り続けていたせいで…」

「クリスを、降りやまない雨の中に放り込んだのも」
「トルタに、想像もつかない重荷を、背負わせたのも」

ゆっくりと、弱々しい声で言葉を紡ぐアリエッタ。

「あなたに本当のことを教えず…ずっと隠してたことも」
「トルタの思いを知っていたのに…何もしてあげられなかったことも」
「全部…私が悪いんだ」

「私には何もできないって思い込んで」
「クリスが…トルタが…どんなことをしても。どんな未来を選んだとしても、構わないって、関係ないって。勝手に決め込んだ。二人から目を背けて…何も知らないふりをしていた」

「私は、クリスの思いからも、トルタの思いからも、逃げていたの…」
「そんな私が…クリスに…トルタのために何かをしてあげて欲しいなんて願う資格なんて、ないのかもしれないのに」

「私は、全部…全部諦めてしまってた」
「諦めてさえいれば、許されると思ってた…」

「…本当に諦めることなんて、できなかったのにね…」

目を閉じ、一つ一つの言葉を胸の奥から吐き出すように続けるアル。
一瞬口元を僅かに歪ませたのは、自嘲の笑みのように見えた。

「クリスが私を必要としてくれているって、ずっと信じられなかった」
「あなたの思いを…ずっと信じられなかった…」

「ごめんなさい…ごめんなさいクリス…」
「ごめんなさい…トルタ…!」

白いシーツを握りしめ、歯を食いしばりながら、懺悔の言葉を重ねるアル。

僕はそんなアルにどんな言葉を掛けてあげればいいか、わからなかった。アルが僕に謝る理由なんて、どこにもないと思っているのに…
ただ僕は、アルの言葉を聞き続けることしか、できないでいた。

「……クリス…ごめんなさい。私ね、ピオーヴァにいた三年間…本当に幸せだったの…心から大切で、幸せな時間だと、思っていたのよ…?」
「なのに…なんでだろう?今になって、あの時のことを…思い出すと」
「震えが…止まらないの…」

アルは自分で自分の体を抱きしめるように震えながら、そう言って顔をあげた。その瞳には、今にも溢れ出しそうなほどの涙が湛えられていた。
僕の方に向けたその顔、だけどその瞳に写っているのは、僕じゃない。

彼女が見ていたのは、雨の街の記憶。
あの街で3年間、フォーニという存在を通して見続けた、彼女の記憶。

「…………クリス……クリスは…そこに、いるよね?」
いくつかの後悔を含んだ懺悔の言葉。その果てにアルはそう呟いた。
その言葉を紡ぐその姿は、とても小さくて。とても弱々しくて。

「……アル」

それは自分でも無意識の行動だったのかもしれない。
僕は身を乗り出してアリエッタに手を伸ばし…彼女の頭にその指を触れた。
その……瞬間だった。

「あ……」

アルの体は、崩れ落ちるようにして。
僕の胸の中に頭から倒れこんだ。

「ごめん……なさい…」
「ごめんね…トルタ…! ごめんね……クリス……っ!」
そう言って。

「あ……ぅああぁ…ああああぁぁ!!」

アルは、僕の胸に顔を埋めたまま。

声をあげて、泣いた。

「ひっ…うぅ…ああ、ぁ……クリス……ごめん…。ごめん…なさい!」
「……たしのせい……のに、わたしのせいで……なのに…っ!」

とめどなく涙が溢れ出ていた。
体を小刻みに震わせて、言葉を、胸の奥から吐き出すように。

「…いや………もう、やだ…よ…!…いのは……暗い…は…もう…」

「忘れないで…私は…いやだ……でも、トルタになら…って…うぅ…!あぁ…」

まるで恐ろしい夢を見た後に、母親にすがりつく幼子のように。
ただひたすらに、泣きじゃくった。

【怖かった】
【寂しかった】
【悲しかった】
【暗かった】

【ごめんなさい】
【私がいなければ】
【消えたくない】
【それが、クリスのためだって】

【私は何のために】
【そんなの嫌だ】
【死にたくない】
【どこにもいかないで】

【忘れないで】

――それはまるで『叫び』
――――『悲鳴』とも呼べるものだった。

何度も何度も、必死で嗚咽を堪えながら、
小さな体を震わせて、その両手で僕の胸にすがりつくように握りしめて。
長く暗い雨の日々の恐怖を。
そしてそれと同じくらい、いくつもの謝罪の言葉を繰り返した。

力を入れすぎれば折れてしまうのではないかと思うほど華奢なアルの体を、僕はただ力の限り、強く抱きしめることしか、できなかった。

「…………ッ!!」

その時の僕の心にあったものは”怒り”だった。
それ以外の感情を持つことが、許されないほどに。
アルに、許しの言葉を掛けてあげることすら……できないほどに。

僕は自分自身が 許せなかった

「ぐっ…う…ッ……!」
言葉が、出ない。
どんな言葉を重ねたとしても、僕は自分自身でそれを許せない。

何が 許されるような気がした、だ
何が マリア様のように見えた、だ

――ふざけるな。

こんなにも弱くて。こんなにも小さくて。
ガラス細工のように、触れれば簡単に壊れてしまうような彼女に。

一体僕は なにをした?

苦しくなかったわけがない。
悲しくなかったわけがない。
寂しくなかったわけがない。

食べることも、寝ることもせず。

自分の命も。
未来も何も望めぬままで。

僕が学院に行っている時。
僕が眠りに落ちている時。
僕に見えないように、その姿を消した時。

泣いていなかったわけがない。

ただひたすらに、願い続けていた彼女の声。
どれほどの悲痛な叫びだっただろう。
どれほどの深い悲しみだっただろう。

ずっと聞こえてた。
聞こえていたはずなのに。
僕は、それに気づけなかった。

何も言わず、何も語らず。

僕の前ではどんな時だって、
元気な音の妖精「フォーニ」であり続けた
彼女の心に

どれだけの覚悟があった?
どれだけの葛藤があった?

どれだけの願いがあった?

体中を引き裂かれるほどの痛みの雨の中で。
三年間ずっと、僕の隣で歌を歌ってくれた、

アリエッタに。

僕は 一体 なにをした?

悲しみの記憶から逃げ続けて。
本当のアルを忘れ続けて。

何も変わらない平穏を享受して、
漠然とした未来を思い描いていただけ。

すべてを思い出した後ですら、
アルの抱えていた思いに気付かずに。

気まぐれに、許してくれと泣きついて。
アルの言葉で満たされて。

何も知らず、何もせず。

いつも、アルの最後の声が、僕の耳に届くまで、
本当に心が崩れ落ちる、その瞬間まで。
アルを抱きしめることすら出来なかった。

――僕は。


 

「…ねぇクリス……これは…夢じゃないよね?」
「クリスは、そこにいるよね?」

「私……生きてるんだよね?」
「ここに、いるよね…?」

「ここにいて……いいんだよね?」

自分の存在を確かめるかのように、
僕の存在を確かめるかのように。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を少しだけ上げて、掠れた声でアリエッタは僕に問いかけた。

僕はその時、ようやくその声に、応えることができた。

これは夢じゃないよと
僕はここにいる
アリエッタの傍にいる

――ここにいるから、と。

その言葉に僅かながらも安堵したのか、アルはもう一度僕の胸に顔をうずめた。

それから暫くの間も、彼女は小さく泣き続けた。
最後のほうの彼女の声は聞き取れない程に小さく、もう言葉にすらなってはいなかった。
彼女は、ひたすらに一つの名前を呼び続けていた。

「クリス」

と。
ただひたすらに、僕の名前を呼んでいた。

いつしかアルは僕の胸の中で小さな寝息をたてていた。その顔に、真赤に腫れるほどの涙のあとを残して。

その体をベッドに横たえ、白い毛布をその上に掛ける。昂ぶっていた感情が少しずつ平穏を取り戻していく。

――自分自身を許せたわけじゃない。

それでも……ひと時の安らぎの眠りに落ちたアルの、その左手を優しく握り締めることができるようになるまでには、自身の怒りを抑えることができた。

「……もう……どこにも……いかないで」
眠りについたアルが、そう呟いた。
それが寝言であるということは、すぐに理解できた。

「……どこにもいかないよ。傍にいるから。ずっと……アルの傍にいるから」

だから僕は、せめてものその言葉をアルに伝えた。


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