『雨』 #2


随分と遅くなってしまった。

料理に使うソースがどうしても街で見つからず、私は意固地になって隣街まで足を伸ばしていたのだから、それも当然だった。

「……アル!」
街の入口にクリスが立っていた。傘を差しているものの、その体は雨に塗れていた。遅くなった私を心配して、探してくれていたんだろう。そんなクリスの優しさに、私は胸が少し傷んだ。

「どうしたのアル?いつまでも帰って来ないからみんな心配していたんだよ」
「うん、遅くなってごめんなさい」
「一体どこに行ってたの?」
「えっと、これを買いに…この街のお店にはもう売切れだったから…」

私は布袋から小さな瓶に入ったジャムソースをクリスに見せた。

「どうしてわざわざ…ジャムが無くても十分食べられるのに」
「…来週、ピオーヴァ音楽学院の入学試験があるんだよね」
「え、うん。そうだけど…」

『ピオーヴァ音楽学院』

ここから南に汽車に乗っていった大きな街にある、私たちの国で一番有名な音楽学校。国内有数の施設を持ち、今までに有名な音楽家を多く出しているその学校は、音楽家を目指す者たちにとっての憧れだった。
毎年の入学受験者数は多いけれど、その中でも合格し入学を許されるのはほんの少しという狭き門。

卒業を来春に控えたクリスとトルタも学院への入学を希望し、その入学試験を受けるのが来週だった。

「だからね。二人にがんばってもらおうと思って」
私は小さく微笑む。

「でも、だからってこんな無理しなくてもいいのに」
「うん、ごめんなさい…でも」

「私に出来るのはこのくらいしかないから…」

クリスに聞こえないくらいの小さな声で、私は呟いた。

「ん?アル。何か言った?」
「ううん、なんでもない」

二人で並んで雨の街を歩く。
石畳の上をたくさんの雨粒が叩いていた。

「受かると…いいね」
私はクリスに声を掛ける。

「そうだね。トルタは実力もあるし、先生からも期待されてるから、きっと受かると思うよ」
「そうね、トルタの歌はとってもきれいだし、それにクリスの演奏だって…」
「僕?いやぁ僕なんて全然ダメだよ、いつも間違えて怒られてばかりだもんね」

そう言ってクリスは柔らかな笑顔で笑う。けれどこの国ではフォルテールが弾けるというだけでも演奏家としての未来を嘱望され、羨望の眼差しで見られるほどに希少な才能であった。
それに…

「そんなことないよ、クリス。クリスがいつもがんばって練習していること、私知ってるもん」
「そ…そうかな?」
「うん、そうだよきっと受かるよ、二人とも」

クリスは確かにマイペースな性格ではあったけれど。音楽を楽しみ、地道にフォルテールの練習を重ねていたことを、私たちは知っていた。

「ありがとう、がんばって見るよ」
クリスははにかむような笑顔を見せてくれた。

私は、昔からその笑顔が好きだった。
双子の姉妹として積極的に何でもこなす妹のトルタは私の誇りでもあり、憧れでもあった。歌も上手くて、いつも私より前を歩いていくトルタ。いつでもクリスの横に並ぶのはトルタで、私は少し離れて二人の姿を見つめるだけ。

でもクリスはそんな私を見つけると、いつでも笑顔を向けてくれた。たとえ音楽で繋がれなくても、大切な友達として、幼馴染として。私の手を引いてくれた。

私はそんなクリスのことが、大好きだった。

クリスがいなければ、きっと私は、どうしようもなく何もできない子だったかもしれない。今のように自分ができることを見つけて、それに打ち込むことすら、できなかったかもしれない。

 

夜の帳が下り、空の色は灰色から黒に変わりつつあった。
これからのことの話などをしながら家へと向かう

「アルは…寂しい?」
不意に立ち止まって、クリスはそんなことを聞いてきた

「…え?」
「もし入学出来たら、少なくとも三年はこの街を離れることになるだろうから」
「…そうよね、三年…考えてみると結構長い…かもね」

私は、何も言えなくなってしまった。
いつも三人一緒にいたクリスとトルタと別れて、別々の生活をする。来年から私はこの街で、三年間一人で過ごすことになるのだろう。

それは確かに、寂しいことだと思う。

「…ごめん。変なこと、聞いちゃったかな」
「ううん、いいの。私は大丈夫だよ。ありがと、心配してくれて」

「私も、来年からパン屋で働かせてもらおうと思ってるんだよ」
「だから、二人が帰ってくるまでに私も頑張って仕事覚えないとね」

でも、その寂しさよりも何よりも。

私は、クリスとトルタが同じ学院に通い、やがて恋人同士になって。結ばれることが、
そしてまた、私だけ残されることが…怖かった。

音楽の才能がある二人。双子の内でクリスと結ばれるなら、トルティニタだろうって、街の人ならみんな思っていると思う。私だって、そう思っていたのだから。

何より、トルタがずっと昔からクリスのことが好きだってことを、私は知っていた。
トルタとクリスが結ばれれば、きっと二人は幸せになれる。

そう、分かっているのに。
それを考えると、胸がズキンと傷んだ。

「…みんなが心配しているから、急がないとね…」
俯いたままで、私は早足で歩き出していた。

「あ、待ってよアル」
クリスは、すぐ私の後を追って駆け出した。


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