「それにしても、たくさん持ってきたね」
クリスは、私たちの持つ荷物を見てそう言った。
「ちょっと作りすぎちゃったけど、大丈夫。
食べきれなかったら夕食に使おうと思ってるから」
私の横を歩く姉さんは振り返りながらそう答えた。
姉さんの持つ蓋付きのバスケットからは、ほのかにパンの良い匂いが漂っている。
少し前に朝ご飯を食べたばかりだと言うのに、その匂いにつられて、私はもうお腹が空いているような感覚を覚えたのだった。
『ピクニックに行きたい。』
退院する前の姉さんが私たちに語った願い。
今日は、ようやくその願いを叶えられる日だった。
私たちはゆっくりと、緩やかな坂を登って行く
天気は快晴、きっと素晴らしい一日になるだろう。
早朝のキッチン、
私たちは姉妹で並んで料理に勤しんでいた。
「トルタ、パンの焼き加減はどう?」
「大丈夫よ!こっちは見てるから、それにアルはデザートも作るんでしょ?」
「うん……でも本当に…」
姉さんは私の手元を見ながら言葉を続ける。
「ん?なに?アル」
「本当に、料理…上手くなったんだね」
そう言って姉さんは微笑んだ。
オーブンの様子を片目で見ながら、小さなフライパンで私が作っているのはフリッタータ。切った具材をボウルに入れて焼くだけの簡単な手料理だ。
「…このくらいなら、ピオーヴァに行く前にだって作れたわよ」
私はそう言って少しだけ強がって見せた。
「そうかもね、でも…包丁やフライパンの使い方を見ればわかるの。もしかしたら、もう料理でもトルタに負けちゃうんじゃないかって…思うくらい」
「あはは、それはいい過ぎ。それにメインはアルの料理なんだからしっかりしてよ。美味しいパンを、クリスに食べてもらいたいんでしょ?」
気兼ねなく、他愛のない、姉妹の会話。
でも思えば、こんな風に自然体でアルと話すのは、すごく久しぶりな気もしていた。
姉さんが事故にあってから。
姉さんがクリスと恋人同士になってから。
或いは…それよりも前。
姉さんが音楽学校に通うのを諦めてから、
少しずつ私たち姉妹の会話には、
ぎこちなさのようなものが、混ざっていたと思う。
双子である私たちはいつも一緒にいたけれど、性格も得意なことも多くが違っていた。
私たちは互いの短所を埋め合うように、或いは思春期を超えて大人になるために、それぞれに自分が自分であると認められるもの。異なる個性を獲得していったのだろう。
それは当然のことではあったんだろうけど、
なんとなく、姉さんと自分が別のものになってしまうことに、寂しさを覚えたこともあった。
ただ一つ。好きになった人だけは、
姉さんも私も、同じだったけれど。
「あ、そうだ。これも持っていこっと」
私は窓際に置いてあったそれを手に取り、丁寧にバッグに詰めた。
少し荷物は多くなってしまったけれど、アルがこの日を楽しみにしていたように、私も何日も前からこのピクニックを楽しみにしていた。
「いい風だね、トルタ」
街から少し離れた山の中腹。
展望台のように開けているその広場からは、私たちの住む街が一望できる。
ここからの景色はとても綺麗で、昔は気候の良い季節になると、皆で遊びに来ることも多かった。
「最後に来たのは、もう5年近く前になるのかな」
「そうね。もう、そんなに経つのね…」
クリスと姉さんは懐かしむようにそう言った。
持ってきた大きなブランケットを広げ、私たちはその上に仰向けで寝転んだ。
夏の後半。北にある私たちの街では、もう暑さは和らぎつつある。青い空は雲一つなく澄み渡っていた。
小さい頃、いつまでも変わらないと思っていた日常。
それでも、私たちの関係性は次第に変わっていき、
日常もまた、目まぐるしく変わっていった。
本当に、たくさんのことがあった。
私たちはもう、子供とは言えない年齢だ。
でも、こうして3人で見上げた空の高さは、
あの頃と何も変わっていなかった。
私にはそれが、とても幸せなことのように感じた。
「それじゃあ、そろそろ歌おっか!」
懐かしさの中で微睡んでいた私は、跳ねるように飛び起き、同じように空を見上げていた2人に声を掛ける。
クリスもアルも頷き、クリスは持ってきたケースからフォルテールを取り出し組み立て始めた。
「あー、あーあー」
私は少し発声練習をする。
ピオーヴァにいた頃は毎日のように歌の練習をしていたけれど、この街に帰ってきてからは、ほとんど歌う機会がなくなってしまっていた。
だからかもしれないけれど。その時の私は、
とにかく、歌いたくてウズウズしていたのだ。
「何の曲がいい?楽譜があればトルタの卒業演奏の曲でも…」
クリスはそう言ってくれたが、その提案は断った。
「ううん、あの曲はいいや…今日は、楽しい曲が歌いたいな」
「この街の音楽学校に通っていた時に習った曲なら、何でもいいわよ」
クリスにそう言うと、彼は微笑みながらフォルテールの鍵盤に指をかけた。
クリスのフォルテールから綺麗な音色が流れ出す。
私は息を吸い込み、歌を歌い始めた。
夏空に、歌声が吸い込まれていく。
姉さんはブランケットに座ったまま
私たちの演奏を愛おしむように笑顔で聞いていた。
数曲を歌い終わり、私は姉さんに声を掛ける。
「どう?アル、私の歌は」
私は胸を張って姉さんの感想を待った。
「うん…久しぶりに聞いたけれど、やっぱりトルタの歌は本当に綺麗だよ」
満面の笑みで、そう応える姉さん。
私にとっては、姉さんの前で歌うのは姉さんが事故にあって以来のことだ。
フォーニという妖精だった姉さんは、ピオーヴァにいた頃も私の歌を聞くことがあったというけれど、こうやって向き合って歌を歌い、歌の感想を素直に話してくれる姉さんの姿を見るのは、本当に久しぶりで…
涙が出るほどに嬉しかった。
「次は…私も歌っていい?」
姉さんは遠慮がちにそう言った。
「もちろんよ」
「もちろんだよアル」
クリスとの声が重なる。
私はクリスと顔を合わせ、少しだけ笑う。
クリスの指が奏でたのは、アルも知っている子供向けの童謡。簡単な練習曲に相当するものだった。
私は姉さんの声を邪魔しないように少しだけ声を抑えてデュエットを行う。
姉さんの歌は相変わらず音程もテンポもバラバラで、クリスはリズムを合わせるのに苦労しているようだったけれど。一曲を歌い上げた姉さんの顔は紅潮し、少し息を切らしながらも嬉しそうに、そして恥ずかしそうに笑っていた。
「さあアル、まだまだ始まったばかりよ?今日はたくさん歌いましょ!」
そう言うと姉さんは嬉しそうに
「うんっ!」と答えてくれた。
アルと一緒に歌を歌う。
姉さんが自分の歌に自信をなくし音楽学校に通わなくなってからは、一度も叶うことのなかった、双子でのアンサンブル。
音楽学校に行くのを泣いて嫌がっていた頃の姉さんの姿を思い出す。姉さんの歌の技量はあの頃からほとんど変わっていない。
だけど私は、かつての姉さんの歌声とは違う、変化のようなものも感じていた。
クリスの卒業発表で誰もを魅了する素晴らしい歌を披露したフォーニ。あれを姉さんが歌ったなんて、正直今でも少し信じられない。
フォーニの歌と今の姉さんの歌とでは、比べるまでもないほどの差があると言わざるを得ない。
私はピオーヴァ音楽院で三年間それなりに努力を続けてきた。声楽科を卒業し、プロになる夢だって諦めてはいない。でも、だからこそ分かることもあった。
フォーニと、今の姉さんの歌声の共通点。
それは、心の底から音楽を、
歌うことを楽しんでいることだろう。
私だって、歌を歌うことは大好きだ。
ピオーヴァにいた頃も、歌を歌っている時だけは
多くのしがらみから解放されて、
歌そのものを楽しむことも、できていたと思う。
けれどそう思えるようになるまでには、少なくない時を必要とした。
上手く歌おうと意識すればするほど、
下手であると自覚すればするほど、
それは遠ざかってしまう感情だからだ。
私自身、そのジレンマには何度も悩まされた。
だからこそ分かる。
本当に思いのままに、好きなように歌うこと。
それと、大衆を魅了するような素晴らしい歌を両立できる者など、よほどの才能の持ち主か…それこそ、妖精でもなければ難しいことなのだろうと。
それから10曲以上は歌っただろうか。
昼過ぎになり、私たちは持ってきたお弁当を開いて昼食会を始めた。
アリエッタの作ったパンやサンドイッチがブランケットの上に並ぶ。
私の作ったフリッタータやサラダも一緒に並べ、私たちは他愛のない会話をしながら舌鼓を打っていた。
「クリス、どうかな…美味しい?」
「うん、とっても美味しいよ、アル」
「…えへ、良かった…」
顔を赤らめる姉さん。幸せそうな二人に、私も混ざっていく
「こっちは私が作ったのよ!食べてみてよクリス」
私は紙皿に切り分けた料理をクリスに差し出す。
クリスはそれを頬張ると、驚いたような顔で「すごく美味しいよ!トルタ」と言ってくれた。
ピオーヴァで、姉さんになりきるために習っていた料理。その努力が報われたみたいで…私は胸に熱いものを感じながら
「たっぷり食べてね!クリスのために頑張って作ったんだから!」
そう、笑顔で答えていた。
昼食後、軽い眠気に誘われ
私たちは再びブランケットに仰向けになっていた。
思い出すかのように私は荷物からある物を取り出す。
「トルタ…それって」
アルが驚いたように顔を向ける。
「うん、持ってきちゃった」
丁寧に取り出したのは、オモチャのピアノだった。
もうそれなりに古くなってしまったけれど、未だにちゃんと音が出ることは確認済みだ。
アルはそのピアノを見て、何かを思い出すように胸を抑えていた。
そう、このピアノは、ずっと昔から私たちの宝物だった。
私が昔風邪を引いた時、姉さんは私に寄り添いながら
このピアノを弾いて、私を励ましてくれた。
音程はバラバラで、全然上手くはなかったけれど、
姉さんが私を思う気持ちは、心から伝わってきた。
『私のおかげだね!』
私の風邪が治った後、姉さんは微笑みながらそう言った。
そして、姉さんが事故にあった時、
今度は私が、眠る姉さんの側でピアノを奏でたのだ。
早く元気になって、目を覚ました姉さんに
「私のおかげだね!」
って、言ってあげたくて。
過去を思い出しながら、うつ伏せでピアノの鍵盤を軽く叩いていると
アルはゆっくりと立ち上がり、深呼吸をした。
「トルタ…演奏を、お願い」
急なことで戸惑ったけれど、私は姉さんの願い通り
私たちが一番最初に習った、思い出の練習曲を奏で始めた。
姉さんは、懐かしいその調べに乗せて、
思いを込めて、歌を歌った。
『――きっとこの胸に降り注ぐ 光は あると思う』
一曲を奏で終え、私はオモチャのピアノを持って立ち上がる。クリスはそんな私たちの様子を、すぐ側で見守ってくれていた。
姉さんは、いつの間にか溢れていた瞳の涙を拭うと、
その場で両手を広げふわりと一回転してみせた。
姉さんのお気に入りの濃青色のエプロンドレスと
その長い髪が風に舞う。
姉さんは、瞳を潤ませながら私を見つめて。
「見て…私、クリスと…トルタのおかげで…」
「こんなにも…元気になったよ」
と、そう言って微笑んだ。
私はそんな姉さんの姿を見て、同じように涙を流しながら、オモチャのピアノを胸に抱きしめながら答えた。
「…うん……うん!」
「私の、おかげだね……!」
その後も、私たちはアンサンブルを続け、
姉さんの作ってくれたおやつを食べた。
暗くなってくる前に、私たちは帰り支度をする。
「クリス、アル。私ね…」
あとは荷物を持つだけとなった時、私は広場から見える故郷の街を眺めながら、二人にあることを伝えた。
「私、もう一度ピオーヴァに行ってみようと思うの」
姉さんの看病をするために、自ら望んで得たこの半年と少しの時間。
私の見たかった景色は、確かにここにあった。
穏やかに流れる故郷での時間は、とても優しくて、愛おしくて…
――それでも。
「私はやっぱり…歌を歌うことが好きだから」
私は二人をしっかり見つめ、そう伝えた。
「そうか…なら、また少し寂しくなるね」
クリスはそう言いながらも、私の選択を受け入れてくれた。
「うん…だけど、トルタならきっと…」
そして姉さんも、少しだけ寂しそうな顔をしながら、
私の全てを受け入れ、応援してくれた。
「でもね、年に一度は帰ってくるつもりだから。そしたらまた、一緒にアンサンブルしましょ。今度は海の方に出かけるのもいいかもしれないわ」
私は笑顔で、再会の約束をする。
私は私の夢のためにピオーヴァに向かい
クリスとアルは、二人の夢のために故郷に残る。
それでも、私たちはいつも繋がっていると思えた。
ここから見える故郷の街から伸びる線路が
遠くピオーヴァの街までも、繋がっているように。