それは、簡単に信じられるような話ではなかった。
アルが昔読んでいた小説。
『フォーニ』と名付けられた妖精。
二人だけの演奏会。
全てを思い出したクリスとの、卒業演奏
この三年間。姉さんが何を見て、
何をしてきたのか…
この町で眠っていた姉さんが、妖精の姿になって、
三年間、ずっとクリスの傍にいたなんて話。
何も知らない人が聞いたら、笑いはしないまでも、
微笑ましい作り話、というだけで終わらせてしまうだろう。
それでも私には、それが決して嘘なんかではないということが、理解できた。
姉さんの瞳に、
一切の偽りが無かったからだけじゃない。
実際に私は、その言葉を信じるに足る奇跡を、
もう、二度も目にしていたのだから…
クリスの卒業演奏。
あの時クリスは、いつか私にもわかると言ってくれた。
今でも信じられないほど、素晴らしい歌声を持った、
目に見えない、クリスのパートナー。
あの演奏を聞いて、私は胸を打たれたけれど、
結局それが何だったのかまでは、分からなかった。
クリスが無事学院を卒業できたと聞いて。
それから、姉さんが目覚めて。
忙しさの中で、いつの間にかあれは
私の見た夢だったんじゃないかとすら、思い始めていた。
でも…
「そんな……」
それが真実だというのなら、姉さんは全てを知っていたということだ。私のことや、私すら知り得なかったクリスのことでさえ。
「そんな……それじゃあ、それなら姉さんは…」
でも、何よりも信じられなかったのは、
姉さんが全てを知っていたことじゃない。
「三年間、ずっとクリスの近くにいながら…隠し続けてきたっていうの?」
「クリスが、自分のことを忘れてしまったままで」
「自分じゃない誰かを…好きになってしまうかもしれなかったのに」
――それがどれほどまでに恐ろしいことか。
――私には、想像することさえできない。
「自分が…死んでしまうかもしれないことだって知ってて…!」
「どうして自分がアルだって言わなかったの?自分のところに戻ってきて欲しいって思っていたんでしょう…!?」
「それで姉さんは…姉さんは、怖くなかったの!?」
私は姉さんに問いかけた。
自分でも気付かないうちに、それは強い言葉になっていた。
「…怖かった」
姉さんは、ぽつりとそう言った。
夕日はとっくに沈みきり、
私たちの周りは、川の流れる音と小さな虫の音が支配していた。
「ずっと怖かった…クリスに忘れられてしまうことが」
星の光で川に映し出されるのは、私と、私そっくりの姉さんの姿。
その影が、一瞬…ひとつに重なったように見えた。
「私のせいで、クリスを傷つけてしまった」
「クリスだけじゃない。トルタにも、ずっと…辛い思いをさせてしまった」
「トルタが弾いてくれたピアノ、私…聞いていたよ?」
「昔からそう、トルタはいつも私を守ってくれていた…どうしようもなく、弱い私を」
「その時に…思ったの。どうすれば、トルタが泣き止んでくれるのかって」
「…姉さん」
「…私がいなくなれば、きっとトルタは悲しんでくれる」
「だけど、それでもいつか、また笑える日が来る」
「私にはもう何もできないって、分かってた」
「誰かにクリスを托さなきゃって…それがトルタだったら、どんなに良いだろうって」
「だから私は…クリスや…トルタのすることを全部…受け入れようと思ったの」
「二人がたとえどんな道を選んでも、私はそれを受け入れようって…ずっと思ってた」
『それなのに……私は、わがままだった…』
――姉さんの言葉は、
――まるで、自分の罪を戒める「懺悔」の様だった。
「私は求めてしまっていた。歌を歌うことを」
「…クリスの傍にいられることを」
「それだけじゃない。心の中で、ずっと思ってた」
「忘れないで欲しい」
「私のことを…思い出してほしいって」
「…」
そんな姉さんの姿を見て、私は一つのことに気付いた。
そうだ。
姉さんは昔から、何事も遠慮しがちで、自分に自信が持てないところがあった。
歌を歌うことだってそう。本当は私よりも歌が好きだったのに、自分に才能が無いことを知ると、それからは一度も歌おうとはしなかった。
音楽学校に行くのを、泣いて嫌がったことだってあった。
才能があるのかなんてしらない、
ただ、私はそんな姉さんより歌が上手かった。
だから、アルにとって歌を諦めることが、どんなに辛いことだったのかなんて、私には分からない。
そして、それは歌だけじゃなかった。
それ以外のことでも、ただ、姉さんには上手くできなくて、私にはできるということが多かったのだ。
そしていつの間にか、私はそんな姉さんを守らなくちゃと思うようになっていて、それまで以上に、何に対しても努力を惜しまなかった。
姉さんはいつもそんな私の後ろにいて、どんなことにも控えめだった。
それがどうしてなのか、私は不思議に思ったこともある。
けれど、考えてみれば…
それは当たり前のことだったのかもしれない。
私は、アルのことだったら何だって知っている。
いつだって傍にいたアルになら、何だって話すことができた。
そしてそれは、アルも同じだったはず。
アルは、私がクリスを好きだってことも、
ずっと前から知っていたはずだ。
本当は私だって、クリスに「好き」と言われることを、期待していなかったわけじゃない。
「音楽」という同じ道を歩むのだから、クリスはアルじゃなく、私を選んでくれる。
そんな、確信に近いものを持っていた頃だって、確かにあった。
だってアルは、自分からクリスを求めようとしたことなんて、なかったのだから。
でも、それは違った。
ピオーヴァでの三年間。
何もかも…自分の命すら省みずに、
クリスの傍にあり続けたアル。
何も言わず、何も語らずに、
ただ、クリスのことを思い続けたアル。
それは、どれほどまでに強い思いだったのか。
――そう私は、気付かなかっただけ。
アルは…ずっと自分の思いを押し殺していたんだ。
私にすら見えないように、ひたすらに…隠し続けていたんだ。
私はたくさんのものを持っていて、
アルにはそれが無かった。
『クリスに必要なのはトルタで、自分じゃない』
だからアルは、そんな間違った思いを持つようになっていたんだろう。
「姉さんは…何も悪くないよ」
だから…今、姉さんが感じている思いは間違っている。
それは、罪なんかではありえないのだから。
強さだけじゃない、本当の私の弱さを誰よりも知っていてくれた姉さん。
私が泣いていた時。弱さを見せた時。
そんな時にいつも私を庇って、励ましてくれていたのは…姉さんだった。
それがどれ程、私の心の支えになっていたか…
姉さんがいなくなって、初めてそれに気づいたんだ。
だから…
「…だって、そうでしょう?」
だから私は言い切った。
「好きな人を、好きだって思い続けることが…」
「好きな人に、好きになってほしいって願うことが…!」
「罪なはずが、ないじゃない……!!」
そう、言い切って。
―――私は、その意味を理解した。